政治家は靖国神社に8月15日に参拝する。
何故靖国神社に8月15日に政治家は参拝したがるのか。祭られている神様なら、すべてをお見通しなはずだ。純粋な気持ちで戦没者に対し、哀悼の意をささげたいというのであれば、靖国神社ではない、戦没者を記念する施設を作らない理由が不思議だ。行きたくても行けないで、痛恨の極みとまで発言している。近隣諸国が靖国参拝を批判するのは、過去の戦争の責任者とされるA級戦犯を受けた軍人が、合祀されているからである。つまり、ドイツでいえばヒットラーのような戦争責任者が、神社に神として祭られていることに怒りがあるのだ。しかも靖国神社は軍人を御魂とする、国家神道の皇国神社である。日本の軍国主義を象徴する神社である。ただの戦没者慰霊施設とは意味が違うのである。ほぼ同様のことを昨年の8月15日にも書いた気がする。その結果、靖国には、軍人以外も祭られているとなどと、本質から外れた批判が続いた記憶がある。
何故、中国や韓国が、靖国神社を閣僚が8月15日に参拝したとして批判をするかと言えば、侵略されたと考えている国としての当然の怒りであろう。批判する権利もある。もしどうしても靖国に参拝したいなら、A級戦犯の合祀を辞めることが、必要である。ところが、それでは今度は日本の政治家は納得しないはずだ。何故、政治家かといえば、普通の人は、靖国神社に参拝しなければいならないなど、あまり考えていないものだ。もちろん、肉親がこの神社に祭られているという意識の人は参拝したい気持ちがあるだろう。申し訳ないことかもしれないが、私には靖国神社に参拝したという気持ちはまったくない。日本人の未来を思い、命をかけて戦い死んでしまった人に対し、特別な気持はあるが、靖国神社という、明治以来の帝国主義を思い出させる場所には行きたくもない。靖国神社は全くそうした、戦死した人への思いは別な場所になっているのだ。だからこそ政治家は行きたいのだ。あえて、靖国神社だから参拝したいのだ。そこには、日本帝国復活という気持ちが重ねられている。
安倍氏をはじめとする自民党国会議員には、靖国神社は踏み絵のような存在ではないだろうか。政治を志す人間である以上、日本という国に対する気持ちは人一倍強いはずだ。自民党議員であるということは、靖国神社に参拝する位は当然だという、気分が最近の自民党には広がっているのではないか。安倍内閣の閣僚になるならなおさらである。踏み絵は、靖国神社参拝のような気がする。何故こんなことになって来たのかと言えば、明治以来の日本において靖国神社が保守的な日本主義の一つの精神の部分であり、象徴になってきたからではないか。これはそもそも神社というものにある日本人の意識を、帝国主義日本を成立させるために、精神的支柱を作ろうとしたからだろう。そもそも日本人の中に、残ってきた原始的な信仰心とも言える、アニミズム的なものを神社は反映している。
私の育った、向昌院では隣にある、御滝神社の神主も管理を任されていた。神社のお祭りには僧侶として、取り仕切っていた。違和感が少しもなかったこの有り方に、日本の宗教の姿が現れていると思う。村の水を守る鎮守としての神社と、死んだご先祖を預けてあるお寺さんが一体化しているのだ。そうした、安心したいという気持ちのもろもろを神社とお寺が神仏混合の姿で、村には存在した。全体で日本教と言えばいえるのではないか。これは江戸幕府の統治方法が反映したはずだ。そこに、日本国という全体的精神を持ち込もうとしたのが、靖国神社の背景にあるのではないだろうか。自民党は、靖国神社を国家直営にしようと、靖国神社法案を5回も提出している。幸い、廃案になり今に至っている。そこまでして国で戦没者を記念したいという気持ちがあるなら、国立戦没者霊園を作るべきだ。そして、そこには、軍人だけでなく、空襲で死んだ人たちも記念すべきだ。