道普請
農の会の麦畑と大豆を作っている道を直した。昔の集落共同体でいえば、道普請である。雨でコンクリートの下側が空洞になって来た。ゲリラ豪雨と呼ばれるような、かつてないような強い雨が降るようになった為かもしれない。そこで道の下側に、石済みをして道を補強しようという道普請である。昔は、集落こぞって道普請をしていたことを思い出した。子供のころの境川村藤垈は車が通れる道はなかった。坂が急な個所は、石段のように段差があった。道幅は4mぐらいはあり、車が通れない訳ではなかったのだが、2か所ある段差に、通る時は丸太をおいて通る。荷車や牛車は難儀していた。昭和30年前後に、この土の道を自動車が通れる道に直そうということになった。車社会が目前だった。たぶんそれまでの林業の方では、馬が普通に使われていたので、少々段差があったとしても問題はなかったのだろう。それが大久保の集落と、藤垈の境に材木の集積場所が出来た。山からそこまで馬が材木を引き下ろしてくる。そこはとても危険ということで子供は近づいてはいけない場所になっていた。
その少し上の河原の崖には黄銅鉱が掘れる秘密の場所があった。クワガタやカブトムシの宝庫だった。材木置場が出来たあとは、隠れて入るようになった。その集積場の広場の所では、青年団の映画上映なども行われた。まだテレビなどない時代である。お祭り以上のにぎわいでたぶん500人ぐらいは集まったのではないだろうか。屋台が何軒も出たものだ。向昌院が一番近い家で、いつもは村で人気のない場所だった。人が大勢集まる準備の段階から面白くてならなかった。昼間の裏舞台を知っていたので、夜になって、突然劇場のように空気の変わるところにワクワクしたものだ。道のことだった。当時はそこまで近郷から歩いてきた訳だ。バスが役場のあったところまで来たのもその頃のはずだ。それまでは、バスは石橋という小学校のあるあたりまでだった。その役場を作るにあたっては、材木をみんなが供出して、境川役場を藤垈に誘致した。土地も有力者が提供したと聞いていた。その時に役場の土台にするというので、向昌院のクリの大木をきってしまったのだ。
道普請のことだった。江戸時代から共同体のすべての作業は、普請として、家づくりから、水路、道づくりまで、共同作業として行われていた。集落ではやっと作った車の道路を度々直さなければならなくなった。車が通れるということは、石がむき出しではだめだ。泥と砂利の道なのだから、雨の度に流れて川になる。そしていつの間にか土がなくなってしまう。そこでまた砂利なり、土なりを山から持ち込まなくてはならない。石畳のように直したところもあった。そうやって月に一度位は、道普請に出るようになった。それは最初のころは、坊が峯の脇の部落まで来る自動車道が流されたというので出ていたのだが、いつの間にか部落内の道普請が多くなっていた。たぶん常に直していなければ、維持できなかったのだろう。県や村がやってくれるということはまだなかった。だんだんに向昌院では出れなくなった。出れないときは、たぶん500円くらい負担金を払うことになった。こうなると、道普請がみんなの楽しみではなくなってきた。道普請をやって集まって飲む。こういうイベントではなくなった。
農の会では機械小屋に行く道が崩れるのだから、大きく壊れる前に直すしかない。せっかくやるのだから、昔のような楽しい共同体の道普請にしたい。奥には畑もあり、ときには行く人もいるのだが、道が壊れたなら、役所に頼むということ以外誰にも出来なくなっている。水路の工事なども同じであるが、本来の部落の仕事であったものがやれなくもなっているのだろう。戦前の山村では集まって楽しくやるのが目的で、部落の作業があったようなものだった気がする。農の会でも、なかなか農業者は集まれなくなった。こうした道普請でも集まるのは、市民的な参加者になって来た。立場の違いを越えるということは難しい。つまり農の会でも農家を目指すものは、経済社会の中に組み込まれたのだ。市民的な参加者で会全体が運営されるようになってきた、そうしなければ農の会の理念は成立できないともいえる。