政治に正しいはない。
政治の議論というものは、正しいものと、正しいものが、議論を行い。正しくない結論を妥協して見付けるものである。そういう馬鹿なことに時間をかけて行うべきだ、というのが民主主義である。なんとも情けないようなことだが、このまだるっこさの方がまだましだと、過去の歴史的失敗から学んだことなのだろう。ところが、そこが危うくなり始めている。参議院廃止論や、ねじれ解消や、憲法改正発議要件の2分の1論である。決断、行動する政治が人気のようだ。原発事故で痛めつけられた反動ではないかと想像している。民主党がダラダラと焦点の狂った民主主義をやって、国民をうんざりさせた反動である。正しいことだけ発言して、その先がなかった。この点は、鳩山氏はリーダーの資質がなかった。言わなくてもいいことをつい言いたくなるくせは、いまだに抜けない、困った人だ。もちろん経済がおもわしくない。中国や、韓国に負け始めているという意識が大きいのだが。
このまま決められない政治であれば、日本がダメになる。日本を取り戻そう。ということになったのだろう。要するに、未来の理想より、現実の現ナマである。原発は問題はあるかもしれないが、輸出して儲けるしかない。議論より結論。国民の選択はここにあったのが参議院選挙である。企業的国家を求めているのだ。しかし、国家は企業ではない。儲け仕事をやればいいという訳ではない。儲からない投資もしなければならないし。福利厚生にも力を入れなければならない。肝心な違いは、目的が利益ではなく、日本人の豊かな暮らしというところにある。暮らしというものは、妥協の産物である。そんなことは家族で暮らせばだれにでもわかる。味噌汁の実でも、塩の濃さでも、妥協が大切である。健康のためもあれば、味覚も体調もある。正しいけれど、頃あいでやっていくしかない。頃あいを探すのが民主主義の志し。
民主主義はこの効率の悪い、妥協の産物なのだ。国家は非効率の方がいいのだ。良いことをしてくれる国家より、悪いことをしない程度の国家を望むべきなのだ。国家がなにかをしてくれるというのは幻想である。何かをするのは、国家ではなく国民一人ひとりである。国民がそれぞれにやればいいのであり、その行動に迷惑をかけずに、自由を制限しないことが政治の範囲だろう。日本は中途半端に豊かになったが、心が貧しくなった。生活保護でも一応は行きわたるようになった。しかし、これにも随分の不公平があり、不満がある。この妥協的なところが民主主義の当たり前の社会だ。これをピシッとやろうとすれば、原理主義社会になる。すっきりはするが、危険でこの上ない。何十回も書いたが、韓国のようにすっきりさせれば何が起こるか。これを良く良く見定める必要がある。中国では国家資本主義とでもいうべき、計画資本主義が国家権力を利用して、効率よく進められた。しかし、その結果起きてきた問題が今や噴出を始めた。
憲法改定過半数発議要件も、はっきりさせたい。自分の正義にのめり込む姿だ。2分の1なら確かに政権党は必ず憲法改定が発議できる。不毛に感じられる議論もない。憲法解釈の曖昧さも、すっきりすることだろう。そして自民党憲法草案が出てくる。これは、民主主義や人権の後退憲法である。さすがにアメリカはこれを許さないだろう。日本国憲法はアメリカの理想主義が反映したものだ。当たり前なら、自民党草案を改正して、現行憲法になるところだ。これが人類が進歩だ。つまり自民党は反動の、日本原理主義革命政権を目指している。自分の思い通りに、少数意見や、公共の利益に反する個人の人権を排除したいのだ。96条を改定を正しいと考える人は、ぜひとも、日本の目指すべき社会という角度から、自民党憲法草案を読んでみてほしい。ここには、政府のグローバル企業一辺倒の世界がイメージされるはずだ。能力主義に基づく、差別の社会が待っている。