形と色のこと
私が描く絵では色が重要な要素になっている。説明的な「かたち」はほとんど意味をなしていない。色で表わされているものは、筆触をもとにした調子を作る色である。画面全体の流れとか、動きは意識しているが、それは筆の調子で作られているだけだ。物の形とか、立体的な量とかは、考えることもない。だから物の形を説明するような意識も、意味もない。では何となく画面にある意味的説明は何なのかということになる。それは私の絵は私の頭の中にあるものだからだらだ。確かに風景のようにもみえるが、風景を頭の中でイメージしているものを写生していると言った方が正確だと思う。頭の中に想像するイメージは、人によって違うようだから、なんとも人のことは言えないが。私の場合、イメージを描いているのであって、実態を描いている訳ではないということになる。イメージは主に、記憶の集積である。新緑の芽の色と言えば、志賀高原の木戸池の今頃の色合いが浮かんでくる。久野で描くときにも、その色は大いに影響する。
このことを改めて考えたのは、車のキーの判別である。ケイトラのカギと軽自動車のカギがそっくりだった。つい間違えてしまう。それでどこが違うのかと見てみると、古いケイトラのカギは地金の色がわずか出てきていて、かすかに真鍮ぽい色そしている。軽自動車のカギはピカピカの銀色に光っている。これだなと思って色で判別していた。ところが、新しいカギも少しづつ光を失い、似たような色調になってきて、さらに間違うようになった。これは困ったことだと思い、他の判別方法はないか、改めて比べた。そうすると、実は形が全く違うカギだったのだ。上部に横向きのスリットがあるカギと、縦向きのスリットが両脇に入る形がまるで異なるものだった。3年近く使っていて、微妙な色の違いばかりに目を向けていて、この形の違いに気づかないということに驚いた。そういえば、自然を見ても同じことのようなのだ。
夕暮れ時におんりーゆーの露天風呂に入るのが好きだ。5時半から、7時まで露天ぶろで空を眺めていることがある。露天ぶろはケヤキや楢の梢で覆われている。夕暮れの空にこずえが新芽を出しながら伸びている。夕暮れの色の多様さも面白いのだが、新緑の甘い色調も得も言われぬ美しさである。暮れなずんでゆく。そして最後には真っ暗な夜空になる。今も頭の中にイメージとしてあの微妙な色合いは、変化とともに思い出される。ところが、どんな枝ぶりのケヤキなのか、その枝先の葉の形はどうであるのかは、思い出すことが難しい。水墨画のように暮れてきた空は、白黒のモノトーンではない。実に味わい深い清色である。こういう色を見ると、水墨画の中に色彩を見るなどと、わかったような絵の見方を述べる人間が、観念的にしか絵を考えていないといいたい。炭色は墨色としてみるべきで、そこに色彩を見ようなどというのは、衒学的な見方である。暮れなずむ闇の梢のほとんど墨のような色の中に、潜んでいる色彩にこそ惹かれるのだ。
これは水彩画を描いているからこそ、見ることのできる微細な色である。もしかしたら見えていなのに見ることのできる色である。形から見る人間や、調子だけで見るのであれば、見えてこない色である。シルエットになってくると、いよいよモノトーンの形が意識されるのだろう。こずえの枝ぶりとか、ケヤキの幹の形。水墨画の世界である。私にそういうことはどうでもいいことのようで、ケヤキの木肌の闇の中にに浮かび上がる色の方が思い出される。水彩画を描いているうちにそういう風によりなったのだと思う。こうした何色とも呼べないようなあいまいな色調を描いてみたい。曖昧な色というのとも違う、名前はないが私の中では明快にその色である。何か意味があるからという訳ではなく、興味が惹かれてやまないということだ。そうした色を通して自分の見えているものが、画面に表すことが出来ればというのが私の制作のようだ。