東電コスト意識改革
東京電力が破たん直前になって、コスト意識を主張し始めた。安全よりコストでなければいいが。社長の訓示では、あらゆる職員がその日に行った業務を、コストとしていくらにになっているかを意識するようにということである。企業として今までしてこなかったのが不思議だ。コスト意識は行政職員にこそ、強く意識してもらいたいものだと考えている。メダカの保全活動で、行政の職員が何人も出て、草刈りをしてくれる。素晴らしいことで、ありがたいことのように見えるが、止してもらいたいことの一つだ。職員が草刈りをすれば、一体いくらの草刈りになるだろう。一人2万円で10人いれば、20万のコストである。その仕事量たるや、私なら2人分で済む仕事である。2万円である。ボランティアの参加だから、その管理に人手が必要になる。東電が言うコスト意識は、賠償対応を丁寧にできない言い訳のような気がする。そんなことにお金をかけていれば、東電が倒産する。倒産したら、賠償が出来ないだろうという居直りではないだろうか。
東電は電力会社である。事故後の処理は、専門ではない。水への対応などとても下手だ。へまばかりしている。と言って事故を想定して、事故対策の専門家を養成していたわけではないので仕方がない。しかし、配電盤の事故やその修理のさらなるミスなど、電力会社としても恥ずかしいことだろう。こういうのも本来であれば、原発のコストに入れて置くべきだ。つまり、原子力発電というもののコストの中にはあれこれ抜けているものが多いい。使用済み燃料の処理コストは電力代に入っていない。処理方法が無いので、原子炉建屋に貯め込んで先延ばしにしていただけだ。そのために実現できない再処理工場を、廃止もできない。こういう費用もコストに入っていない。今後、発電方式別に電気料金が変わる可能性がある。こういうとき原子力での発電価格には、除染の費用から廃炉まで、すべてを入れてコスト計算をしてもらわなくてはならない。もちろん税金での補助はしない。そうとう高い電力になるに違いない。たぶん、40年どころか、80年くらいは炉を使うつもりだろうか。原子力発電を安いと信じるコストの根拠はどこにあるのだろうか。
コストをどうでもいいという訳ではないが、農業でも国際競争力がすぐ出てくるのはおかしなことだ。食料の生産コストを主張するなら食料の安全保障部分のコスト。環境維持貢献コスト。景観維持コスト。すべてをコスト計算して、どんな選択が日本にはあるのかを考えるべきだ。競争を正義とすれば、石油の出ない国と同じで、自然条件が国の優劣になる。コストで敗れる国は農業は止めろというのだろうか。その国は飢えろということになるのか。コストを突き詰めると能力主義の問題に至る。ごみ処理の経費をごみ会計できちっと算出すべきというのは、環境省の主張である。理由はごみ処理を有料化にせざる時代が迫っている。その時ごみ処理のコスト計算がない、根拠のない有料化をおこなえば、訴訟が起こリかねない。自治体ごとにごみコストは、倍以上の違いがある。自然や社会環境や産業形態、観光客などのごみ、条件が違えばごみ処理コストは変わる。
絵画のコストはどうなるだろう。例えば絵画の必要経費を税務署はどう見るかと言えば、その絵が実際に描かれた絵の具代やキャンバス代は経費。風景であれば、写生地までの交通費、旅館代などは、その絵描きのレベルによるようだ。一枚の絵が出来上がるには、10枚書いて無駄にする人もいる。一枚に1年間かかる人もいる。絵のために人生を失う人もいる。私は、ずーと考えていて、たまに描く。このずーと考えているのは、税務署は経費に入れないに違いない。要するに絵を描くなどということは、コストから考えてはおかしくなるだろう。やりたくてやっていることにコストがある訳がない。一番は、生きていることにコストはないということ。つまり死んだらおしまい。原発の安全コストは限りが無い。コストを惜しんで、死んでしまえば終わりだ。安全のためには、限りなく思いつくすべてをしなくてはいけない。だから経済性の伴う中での原子力発電は無理なのだろう。