議員定数
議員定数は多いいほどいい。報酬は普通の人と同じ程度にしてもらいたい。議員は半分でたくさんだ。という悲しいマニュフェストが出てきている。無駄に見える現状から出て来ている。議員と言っても国から県そして市町村と様々だが、どの段階でも、本来の意味では機能しているような気がしない。上手く機能しているなどと思っている人は、議員当人位だろう。原因は民主主義が育つような、制度に成っていない。議員の志が育たない。有能な人がいないとは思わない、有能な人がその人に相応しく活動できるようになっていない。政治家になって、ダメになって行く。今の現状が駄目だからといって、議員数を半減は乱暴な意見だ。少人数の次は独裁ではないか。一人で決めた方が分かりやすい。実行力があるし、緊急対応も素早い。間違えであることは、歴史上の失敗で出た結論である。
維新の会は議員定数を半減するとの公約である。議員を葬式や祭りから解放しろ。こういう主張のようだが、まったく見当違いの意見である。総理大臣であっても、恩人の葬儀にも行かなかった。そうではない、生きているのに死んだと思っていた人がいた。こういう無神経がいいとは思わない。選挙違反になることを理由に、普通の交流さえ避けようという不自然な議員もいる。衆議院議員が国家天下を論ずるのは良いが、それと議員定数とは関係が無い。選挙とそれで選ばれる議員もおかしいから、祭りや葬儀に出張りたくなるのだろう。政策でしか判断しない。あらゆる選挙がそうあるべきだと考えている。民主党が批判されているのは、マニュフェストがあるからだ。それまでの選挙では公約を破ったからと言って、選挙前の約束など破られて当たり前だろうというレベルだった。祭りや、葬儀に行かないからではない。政策を発表し、投票する。当たり前のことをやればいい。
政治は、直接民主主義に近いものほど、理想に近いのである。どのようにインターネットを使い直接的手法を取り入れるか。これがこれからの課題ではないか。世論調査をやりすぎるので、政治が右往左往すると怒っていた評論家がいたが、それも政治家がインチキだからで、国民の意見が刻々分かると言う事自体が悪い訳ではない。本来であれば、政府はインターネット投票制度を持つべきなのだ。それで、必要な時に政策ごとの国民の意見を集めればいい。その結果をどのように、生かすかが政治だ。国民は間違う。間違いながら、政治とは何かを経験して成長する。新しい形の直接民主主義を実現できるのがインターネットである。選挙運動すら、インターネット禁止では話にもならない。国民の意見なぞ混乱と間違いばかりだ。そんな直接民主主義に従えば危険だ。確かにその前に、国民の成長が必要である。また成長するためにも、参加することが必要である。
まず、政治家が偉い人と言う感触を一掃することである。人間が偉いのではなく、政策が素晴らしいのだ。政策は論理であって、人間ではない。悪い人でもいい政策を出してくれればその方が有難い。維新の会の議員半減が正しいと考える人は、維新の会に投票する。維新の会も責任を持って実現する。素晴らしい政策を出している政治家もいる。インターネットで丁寧に見て行くと、これだと思う政策にぶつかる。小田原の地方議員でもブログを書いている議員はいる。何を考えているかが見えてしまうと、政治家として不利と言う感覚がそんざいするなか、少しづつ変わってきている。お祭りや、葬式に顔を出していれば大丈夫だ。維新の会だけがそんなことを考えているとすれば、古すぎる。インターネットを選挙だけでなく、政策の判断に利用する。新しい直接民主主義制度をインターネットを通して、実現する。こんなマニュフェストの党に投票したい。