入れ墨問題

   

橋下大阪市長が入れ墨の有無を、市職員のアンケートによるチェックを行った。これが人権問題であるかどうかである。ことの発端は児童館の職員が、刺青を見せて子供を脅したという事件からだ。この児童館の職員がおかしな人だということは誰にでもわかる。問題はこれを一般論として、職員全体のアンケートに広げたことの是非であろう。基本的には市長として、必要な処置だとおもう。橋本市長のことだから、こんな取り上げ方をすることが、自分の人気につながる。選挙戦略を感じる。今入れ墨のことで、ここまで大騒ぎする必要があるかと言えば、そうでもない。昔の銭湯にはそういうオジサンが必ず居て、幅を利かせていて厭なものだった。言外に暴力で威嚇する行為の一つである。そんな人が何時もいる風呂屋は、客は減るだろう。そんな児童館には子供は行かない。

橋下氏のやり方を人権侵害だという向きがある。人権の間違った拡大解釈した主張だ。犯人の人権が守られて、被害者の人権が守られない、おかしな人権解釈の風潮が連想される。確かにどんな犯罪者にも人権はある。問題は市の職員に入れ墨があっていいかどうかだ。この事をまず議論すべきだ。あっても良いというなら、確かに人権問題である。あってはいけないということが普通の考えだと思う。それなら、職員を続けるなら入れ墨を取ればいい。入れてしまったことが、市職員としてふさわしくないことであったのだから、勤務を続けたいならば致しかたないことである。児童館職員の入れ墨を見せて脅しをかけるという行為からも、入れ墨は日本の社会では、一般的には暴力提示である。分かっただけで110人の入れ墨を入れた職員がいた。アンケートに答えない職員、あるいはアンケートをしていない、教員関係を入れたなら、まだ増える可能性がある。

入れ墨そのものがいけないのかと言えば、そうではない。やりたければやればいい。弱いものが、強がるために入れる場合もあるだろう。ファッションと言えばいいのだろう。派手な服を着る。ひげを生やす。こういうのも、職場によっては禁止される。私も、教員をしていた時は、ひげは毎日剃っていた。頭も剃っていた。僧侶の学校だから、それの方がふさわしい感じがした。変わった格好で主張したいなら、教員や行政の職員にはならないことだ。このけじめは、あった方がいい。役所に勤務はしたいが、入れ墨は入れたいでは、少し無理ではないか。公務員というのは、そういう職業である。公僕という言葉すらある。これが、渡世人の世界なら、入れ墨がない方が肩身が狭いのだろう。しかし、そう言う入れ墨ではなく、若者のファッションだから、という言い訳を良く聞く。世界の潮流とか、アイヌ民俗では、沖縄では、などと違う観点から擁護する意見もある。何をおもねっているのか不思議でならない。こういう足をすくうような、側面意見は情けない。

問題は、橋下市長が何故今、こんなことを問題にしたのかである。あるいは彼の演出家が、何故今こんなつまらない、今でなくても良い様な問題を提起したかである。つまり、劇場型の政治手法の種が尽きてきたのだ。つまり、大飯原発再開容認の目くらましの失敗である。政府批判の激しい啖呵を切っていた人間が、あっさりと旗を下した。結局は背に腹は代えられない。こういう人間が国政をやれば民主党と同じで、選挙前は国民受けだけの発言をして、政権に就けば忽ちに前言を翻す。要するに政治思想が欠如している。イデオロギーがない。もちろん個人的な考えがないというのではない。何故原発に反対なのかも、手続き論だけであった。エネルギー政策の屋台骨がない。だから都合に合わせてのタレント的発言である。日本の政治を見たとき、まだしも橋下氏の方がなどと思えるのだから、全体がひどすぎると思う。

昨日の自給作業:タマネギ、じゃがいも、キャベツなど収穫1時間 累計時間:25時間

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