孤立死と孤独死

   

報道と言うものは「死」と言うものに引き寄せられる。死は、何にも代えがたい絶対的なものだからだろう。しかし、孤立死という新しい言葉で、取り上げてもらうまでもなく、死は心中であっても孤独に訪れる。死は全く孤立したものだ。たまたま周りに家族が居て、見守ってくれている中であったので良かったとは、当人には言えない。孤独と、孤立は、似ている言葉ではあるが、本質が異なる。孤立という言葉で、問題になるのは、地域の崩壊と言うことではないだろうか。ご近所が気付かないということは、別段都会でなくても、ありうることである。死んでしまう事例は特殊であるが、困窮している、行き詰まっている。というようなことを、誰も周辺のものが気付かない。この個人情報時代においては、珍しいことではないだろう。それでも家で死になたいと言う人の方が多いいと言われている。病院嫌いであるので、孤独で死ぬこと位は覚悟している。

死後1カ月以上、死んだことすら気付かれない死。大まかにこうした死にかたを、孤独死と呼んだ。死んで行く人が孤独であったろうという、心情をおもんばかる観点を感じる言葉である。孤立死という言葉に変わって、その周辺の社会からの孤立という方に、視野が広がった。3人がいっぺんに死んだような事例では、孤独ではない。賑やかな死だ。その賑やかさが、一層の孤立感を深める。社会の病理性まで感じることばである。3人の人が死んでゆく姿が、周辺の社会から見えない状況で進んでゆく病理。他人のことに踏みこんではならない。かかわりのない地域社会が都会から始まっている。社会の疎外的状況の問題。都会の孤独という言葉がある。溢れるほどの人間が居るが、その大量の人間と、自分が生きているということが繋がらない孤独。しかし、孤独以上にさっぱりと、切り捨てたように、孤立させられて死んでゆく社会。こんなことでいいのかと思いながらも、これから孤立死と呼ばざる得ない哀れな死が、増えて行くことになるだろう、と思う。

わたしは孤独死の可能性は高いが、孤立死ということは無い気がする。むしろ死は孤独であっても良い。しかし、わたしという人間の生命は社会の中に存在し、孤立はしていないという状況で生きて、死になたい。一人で孤独に死ぬということは、過去いくらもあったのではないか。路傍に倒れて、行き倒れる。それは今も、路上生活者の死では珍しいことではない。報道されることすら少ない。路上で生活しているにしても、せめて孤立はさせてはならないのではないか。それぞれが孤立が深まる社会では、排除の思想の方が、強くなっている。異物を排除する気持ちは、すでに自分も孤立が始まっている。そんな社会であって欲しいではないか。最近ブログの更新が無いな、病気でもしたのか。1カ月もたって、ああ死んだのかもしれないという具合になる。誰かが書きこみに死んだようだと書いてくれるかもしれない。

仲間の存在ほど有難いものは無い。あしがら農の会の仲間。生ごみ堆肥化の仲間。田んぼの仲間になると、殆ど家族のようなわがまままで言える仲間である。やや方向を同じくする仲間である。すごく大きくとらえれば、似たような方角を目指している。もちろん厳密に言えば、それぞれ一人である。しかし、協働できる範囲である。小田原の生ごみがすべて、堆肥になるまで頑張る。あしがら地域に自給農業が広がる夢。こうした思いがあるので、孤立から救われている。孤立状態が広がる。困窮から、餓死する。ガス、電気、水道を止めるけれど、どこにも連絡はしない。プライバシーとか言うが、いい訳にすぎない。その前に、おかしいと思う感性が無い。そんなことまで仕事の内ではないという意識があるのだろう。誰かを責める訳ではないが、こういうことが当たり前に通る社会ということは、深刻な事態だと思う。

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