東電の国有化議論
東電の国有化を東電が受け入れない。経団連の代表は、政府の思い違いだと発言している。東電の置かれている状況は、電力を国としてどのように位置づけるべきかの、根本が問われている。原発事故に至った、チェック機能を育てられなかった体質が、独占民間企業という自己正当化に陥りやすい会社のあり方に原因があった。加えて原子力発電所の事故を起こし、300キロ離れた小田原にまで被害をもたらし、今だ解決の方針すら示す事が出来ない。最悪の企業内部の状況である。経団連代表は軽い人だ。東電の社長に頼まれて適当なことを発言したのだろうか。東電はそもそも民間企業ではない。電力を独占販売できる立場で、その販売価格も利益が出るように、法律で決められてきた会社である。いわゆる民間の競争の中で、問題点が自浄努力されるような会社ではなかったのだ。しかも、国の原子力推進の方針に基づき、自主的な判断などない中で、今の状況にまで進んだ会社である。いわゆる民間会社として、経営が磨かれる機会がない会社である。民間の良さなどないそもそもない会社なのだ。
一方、国有化して良くなるはずがない。そう考える経団連代表の考えには同感だ。ギリシャではないが、公務員が国をつぶす。それでも、今の東電は最悪の形の民間会社なのだ。電力会社と癒着した批判を受け入れない原子力村の存在など、その悪い形が現れたものだ。耐用年数についても、長く使えば儲かると言う事だけで、安全性を企業の存続にかかわる、根本の事と考えていた形跡がない。安全を前提として、いかに国民を洗脳するかだけを模索した会社だ。本来原発の安全性を高めるためにかけるべき費用を、原発の安全の洗脳活動にかけていたのだ。それは、半分民間という、実に悪い経営形態に由来している。原発周辺の自治体に訳のわからない寄付行為を何10億円としている。それも電気代に上乗せできるのだ。もし、競争する民間会社であれば、一定の歯止めはあったはずだ。今でも、原発から足が洗えない姿は、マインドコントロールが政府ともども解けないかのごとくである。
国有化は緊急避難として止むえない処置であろう。原発事故の処理が付くまで、国が全面的に対応する以外、解決が出来ない。我々も東電と直接賠償交渉をしたが、全く良い交渉にならない。当たり前のことで、巨大な加害者と小さな被害者の直接交渉では、話し合いの場すら拒否されたまま、どうにも動かなくなっている。議事録を作るという約束すら、3時間の話し合いの結果が、東電の都合のよい10行程度の文章にまとめられて終わりである。東電の社員の態度も、日に日に投げやりになり、どうでもいいという空気が蔓延している。自己の責任を感じて、謝罪し解決に当たろうとするとする会社の体制にない。現状は、NPO団体への賠償の形が出来た時に連絡をするということのまま、今持って連絡がない。不誠実な加害者となぜ我々が努力しなければ、交渉を持つことすらできないのか。努力するのは東電の側だろう。こんな会社に再生の道は無い。
有機農業で耕作していたものは、それに応じた顧客を確保してやってきた。有機農産物の購入者が、セシューム100ベクレル以下どころか、0,1ベクレルでも厭なものは厭だ、という反応になる人が存在する。そして宅配を止める現実がある。その為に起きた損害に対しての賠償に応じない東電。こんなひどい会社をこのまま残しておいていいのか。長年のゆがんだ民営会社というおかしな形で存在していたため、危機に対する対応能力を失っている。再生できる能力が無い。国有化論の根底には電力全体の構造改革が必要ということを、据えなければならない。電力の自由化。これが基本の理念ではないか。各地域に小電力会社を育てる。自給電力ネットワークの構築。その為に国が環境整備をする。国が受け持つべき部門と、地域の会社が受け持つべき部門を明確にして、自然エネルギーの小電力会社を育成する。