農の会という日本モデル
正月、実は「正義のアイデア」アマルティア・セン著、池本幸生訳を読みながら、考えていたのが、農の会の「地場・旬・自給」の意味である。それを昨日までの3日間にまとめた。少し大上段でおこがましい文章に成ってしまった。昨年はどん底である。落ちるところまで落ちれば、あとはみんなで這い上がるだけだと考えていた。ところが、相変わらず神話の世界に生きている人たちが、多いことに愕然とした。原子力構想は崩れてしまい、もう戻れないことに気づかない利権集団のしぶとさ。政治の実情。この余りの愚かさに、原発事故以上の絶望を感じることになった。世間的に有利な立場や、既得権益にしがみつき離さない人々。こういう愚かな人たちの御蔭で、新生の機会を逃すのかと思うと、悔しくてならない。日本と言う国は、繰り返し起こる災害の中に生きてきた国だ。縄文時代には西日本が壊滅するような桜島の噴火もあったと言う。大きな津波も何度も体験して来た。その都度再生してここまで来たのが日本と言う国だ。
この豊かな国土は、いつも危険と隣り合わせであった。温泉があるから噴火があるように、世界一豊かな海があるから、津波が繰り返し襲う。災害に遭いながらもこの地に踏みとどまり、復興を繰り返すことで、日本民族が誕生したともいえる。この国土に今必要なことは、現状と正面から向かい合う事だ。なぜ、対峙することが出来ないかと言えば、自己否定が出来ないでいるからだ。既得権益を守るという、後ろ向きな人間性にかたまっている。福島の人たちの生活を壊した責任は、東電管内で暮らしているすべての人に重いはずである。出来ることをそれぞれにやろう。何世代かかったとしても、生き残った人間でもう一度やればいいぐらいのことだ。人間はただ生きながらえた所で、無意味である。今日の命があるなら、今日の命に全力で生き、再生して行く。この意欲を失った時が、終末である。これは自戒である。
日本は再生しなければならない。それは日本人の為だけでなく、全人類の為である。この何十年に一度はご破算になるような列島に住みついて、水土の農耕文化を打ち立てた日本人の文化の役割である。ここに立ち戻ることだ。まず、原子力に至った経済競争の愚に気付かなければならない。競争に勝つためには、そのリスクに目を瞑ってきた明治以来の日本人。軍事力を背伸びして増強し、アジアの覇者たらんとした戦前の日本国は、アメリカによる原子爆弾とともに終わった。そして、トランジスターラジオのセールスマンと蔑まれながら、必死に経済競争に明け暮れ、ついには安く付くはずだった原発の大事故に到って敗北した。すべては勝つことに一途になってしまう日本人。負けたっていいじゃないか。と言えない一番でなければ耐えられない日本人の弱さ。生きると言う事を深める幸せは、経済的な豊かさでないことは、江戸時代に戻ればすぐわかることだ。
これからの日本人の目標は、日本モデルを作ることだ。他国に喜ばれる国にならなければならない。競争など勝ったからと言って尊敬される国になることは出来ない。少しづつ経済競争から、暮らしの豊かさに向けて、ソフトランディングすることだ。経済だけの拝金主義から抜け出ることだ。この抜け出る可能性がある国としての日本こそ、その価値なのではないかとおもう。江戸時代に培った循環する社会の仕組みを、現代の民主主義社会に再生すること。それは資本主義を乗り越えることでもある。能力主義を乗り越えることでもある。それは一世代では出来ないことかもしれない。そんな甘い事を言っていたら、暮らしてゆけないと思い込んでいると思う。しかし、このまま競争の原理で進めば、さらに大きな破綻に至ることも考えなくてはならない。貧乏な社会に戻れということが、受け入れられる訳は無いのだが、それでも生き延びるためにはそれしかないと考えた方がいい。