市と市民の協働について

   

市と市民の協働を考えてみる。協働という言葉が、協力し合って働くという意味であるから、両者が力を出し合うと普通は考える。行政の言う市民協働は、地域の市民自身が自助努力をして行く姿を期待しているのである。市民自身が担うべき役割を見直すことが、市民協働社会。何でも行政頼みを止めなければ、市の財政が成り立たない。軌道に乗るまでは市民の社会活動を、行政は手助けし活発化する。ある程度軌道に乗れば、市の手から離れ市民自身の自立した活動になる。市民は協働とい言葉から、自分達の活動を行政がやっと手助けしてくれる事になったと考えてしまう。この掛け違いが、小田原では顕著になっている。目指すべき協働は、難しいのであるが、「行政の公共として信頼される良さと、市民ならではの地域密着の活動力が、協働することで、何倍もの有効な仕事が出来ること」ではないか。

小田原に来て10年の間に、5つの市と協働する事業を行ってきた。1つ目は、「あしがら農の会」である。これは市民が農的な暮らしを行いたいという活動がすでに存在していて、そこに行政が乗ってきた形であった。小田原市が農業特区を作り、その構想に協力して欲しいという依頼があった。農の会としては利用させてもらった。2つ目は「メダカ協議会」酒匂川流域の自然環境を守るために、何とか道路構想をやめさせようと動いたものである。結局は道路が出来たが、何とかメダカの生息地域を残すという形を目指している。3つ目が「小田原有機の里づくり協議会」市内の4つの農業団体が、国の有機農業モデルタウンの構想に合わせて、市に対し要請をし、協議会の設立を行ったものである。4つ目が「美しい久野里地里山協議会」これは県が里地里山条例を作る構想に合わせて、指定地域を作るということで、小田原市に呼び掛けがあり動きだしたものである。

そして、5つ目が「生ごみクラブ」である。4つの前例を踏まえ、より本質的な協働の理想を模索している。しかし、活動を深めることを通して、いくつかの点で行政と意識の違いが表面化してきた。この問題点を、正しく考えてみることは重要。市民はどのような立脚点で、何をするかである。その活動が暮らしに直結し、市と言う社会と意味深く繋がっていなければならない。農の会で言えば、市民が農業をする。それは市民自身の暮らしの為である。そのことが、耕作放棄地の解消と言う社会性につながる。メダカ協議会で言えば、メダカ米の販売が農家の営農意欲を増し、田んぼの維持につながる。有機の里では有機農業と言うこれからの小田原の農業の可能性の模索である。里地里山の協議会で言えば、この地域の林業農業の活性化である。すべては改めて仕事を作るのではなく、地域で暮らす人を後押しすることになる。

「生ごみクラブ」では段ボールコンポストを普及することで、10%の市民が生ごみを堆肥として循環することを体験する。暮らしの見直し。そのことが市の財政の健全化にもつながる。1家族が生ごみを出さなければ、市にとっては1万円の経費削減になる。と考えてきた。確かに、この経費削減努力は一定の規模にならなければ見えてこない側面もあるが、ごみが減れば、大なり小なり、処理費が削減されるのは、事実である。農林漁業はもちろんのこと、地域で暮らすということの魅力を再評価して行く必要がある。それは経済のグローバル化で、地域と言うものが崩壊してきているからだ。小田原の魅力ある資源、その芽を見つけ育んでゆくことが、市行政と市民の協働だと思う。財政の節約や、仕事を市民にゆだねると言うことではない。段ボールコンポストは誰でも取り組める。暮らしが循環しているという点の気づきになる。そのことが地域と言うものを見直す出発になる。生ごみを減らしてゆく、と言うことは直結しては、市の財政の利益でもある。

昨日の自給作業:苗の定植、キャベツ、白菜 1時間 累計時間:12時間

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