月光を描く
久しぶりに絵を描いている。3月11日以来全く描く気持ちが湧いてこなかった。このまま筆をとらないでも別段いいと思っていたのだが、5ヶ月たって描いてみたいものが出てきた。月光である。突然、心に沁み入ってくるものがあった。西湘バイパスを小田原に向かって走っている時、満月の明るい月が、海原を照らしていた。不思議な明るさと、暗さが同居している。惹きつけられて、サービスエリアでしばらく海を眺めていた。あの光は、反射光なんだと思った。何の脈略もないのだが。印象派が外光を絵画に取り入れることで、自己表現を獲得したとしたら。あの月光は、異なる世界の内なる光なのかもしれない。この取り残されたような自分の気持ちを反映するものがあるのかもしれないと思った。鍋島紀雄氏の夜の海の繪を思い出した。月に輝くあの異様な、気味悪い夜の海である。絵の善悪を越えた止むにやまれぬ思いだけの繪。
描かれた風景がある時現実の風景以上に、見たことのある風景として眼前に現れることがある。例えば有名な絵では、岸田劉生の切り通しの風景である。似たような場所を見たことはある。しかしここに描かれた場所以上に現実として思い浮かぶことはない。あの鍋島氏の夜の海も、似たような海は何度も見たと思うのだが、あの絵の夜の海ほどに現実として思い浮かぶことはない。何か脳の回路の中で、現実以上の現実として定着してしまう絵画。ボナールの庭の風景もそうだ。あの光のまばゆさはあの絵の中以上に明確に浮かぶことがない。絵があらゆるものを捨てていて、大切な所だけを抜き出しているからなのだろう。しかし、そう言う絵だからすべてが現実として記憶されてしまうかと言えばそうでもない。ある特定な絵なのだ。たぶん人の記憶の中で、印象深い似た場所があるような感じである。切り通しを通るたびに、ああ劉生の・・・と言う感じがしてしまい、記憶が強化されていく。
それが素晴らしい絵だと言う訳ではない。あの感じは何なのだろう。夜の海に月の明かりが映えて当たっていると、どうして鍋島紀雄氏の絵にになってしまうのか。あの絵を見たのは吉井画廊だったろうか。梅野画廊だったのだろうか。それすら定かではない。見た時にも良い絵画だと思った訳でもない。にもかかわらず夜の海を見ると鮮明に、ちょとやり過ぎで汚ならしいと思った筆遣いのようなものまで表れてしまう。私がそう言うものを描きたいと考えている訳ではない。どちらかと言えば、坂本繁二郎の月の繪の方が好きだ。それでもああいうものと自分は違うという意識がある。何故だか子供の頃、坂本繁二郎は大人気で私もパステルで真似て見たことがあった位だ。今はどうだろうか。若い人なら知らない人になったのかもしれない。
4枚の絵を描いている。2枚が月光の海の繪。2枚が月光の畑の絵である。美しくは見えない世界をかろうじて、月の光が描く気持ちにさせてくれている。別段いい絵を描こうと思う訳でもない。ただ3月11日以降の目に映ったものを、描きとめておく気持ちに初めてなった。何故早春の美しい景色が美しく見えなくなったかである。目に映るとは、意識がそう見えさせているということである。意識が変われば同じには見えない。見えているものを、見えている真実を描きとめるのが絵だ考えてきたのだが、私がやってきたことは何と浅はかなことであったのか、思い知る。美しいというものの意味の奥行きに至っていない。絵と言うものの大半はいらないものであったのかということである。描きとめてみたいと思う世界が、ますます描き止めがたい世界になってしまったようだ。