ボランティアの問題
ボランティアという考え方は嫌いである。そのような意識で何かにかかわったことはない。すべてがやりたいことをやらしてもらうという形である。地域社会が崩壊して、行政がその穴埋めをする。その穴埋めの不足部分をボランティアという形で、善意の市民にお願いして補う。問題の原因は社会の成り立ちの変化にある。その原因を問題にせず、ボランティアという形でつじつまだけを合わせようとすることは、むしろ問題を深刻化させる。ボランティアという形で、解決の一歩を踏み出すことは。現状やむえない。しかし、あくまで初期段階の手当てであって、ボランティアが恒久化されてしまうことは良くない。もし恒久化されているものであれば、それはボランティアと呼ぶべきではない。収入が伴うかどうかは別にして、それは責任の伴う仕事と考えた方が良い。ボランティアという言葉には抵抗できない、善意の押しつけがある。
社会にとって必要で足りないなら、はっきりと仕事にすべきだろう。いつまでもボランティアで続けるというのは、不自然である。報酬の有無ではなく、社会的貢献の仕事という概念を作るべきだ。奉仕ということには、宗教活動のイメージがあるが。奉仕はあくまで自分の為のことで、人を誘うようなことではない。自分の生き方として奉仕をするというのは、美しいことである。その姿に共鳴して加わるのは良いが、良いことなので是非やりましょう。などと言われるのはおかしな気がする。好きでやっているのがいい。人の為にとか、社会の為にとか、恩着せがましい活動は大嫌いである。ボランティアという自覚がある組織は、次の段階を目指すべきだ。行政の役割にする。何時までもボランティアであることを恥ずるべきだ。
生ごみの堆肥化事業はボランティア的であるが、あくまで初期段階の五年間と考えている。軌道に乗るということは、行政の仕事に成るということである。これを協働の市民活動ですというだけでは位置づけでは弱い。家庭ごみの処理の責任は行政にある。行政から市民が役割分担することは正しい。この仕事にはまだ名前が無い。森林ボランティアというものがある。山林が管理されずに荒れている。経済的に林業が成り立たないからである。林業が衰退し消えようとしているからだ。林業が成り立たない所に問題があるのであり、ボランティアで補おうという方向は、あくまで緊急措置だ。そうでなければ矛盾が増大する。災害ボランティアというのもある。ボランティアという外来語が便利なため簡単に使うが、善意が根にあるだけに、気おつける必要がある。
ボランティアは社会に必要だが、まだ行政として、確立できない段階の補い。社会の仕組みから言って、基本は税金でおこう仕事として成り立たせる。それだけでは足りないし、報酬ではできないこともある。ここを市民協働というのであるが、その具体的な仕組み、枠組みを見つけなければ、継続は難しい。行政の仕事は報酬という合理性で運営されるべきだ。社会が経済の合理性で成り立っているなかに、ボランティアが割り込むことで、生業を歪めてしまう。地位で、名誉で穴埋める社会矛盾。社会の知恵とは言えるが、厭な社会だ。欧米ではキリスト教精神ということがあるのかもしれない。日本では、人情ということだろう。人情は出来るだけ見えない形が粋とされた。