水彩人写生会

   

水彩人写生会を計画している。下田でやろうとかと考えている。いくつか旅館の候補はある。近いうちに行ってみようと考えている。ということで、実は昨日見てきた。「いそかぜ」という須崎のほうのホテルである。伊豆半島が、太平洋に突き出た一番先にある。一段高いところにあるので、眺めは良い。海を描くということではこれほどの宿はなかなかないだろう。その昔、美術の教員試験に生徒の写生会を行う企画を書きなさいと言うのがあった。今もそういう試験はあるのか、無いのか、その辺はわからないが、もし日本で絵画の講習会の企画を立てなさい。こう言われたら、良い企画を立てる自信がある。いたるところ描いて歩いていいる。これが一番である。描きたくなる場所というのが、分からなければ企画は立てられない。先生である春日部洋先生も写生家で、どこへ行って来たので絵を見てもらいたいと言うと、大抵のところは行かれていた。先生のすごいのは、何旅館のどの部屋が良いということが、細かく記録されていた。

鳥海山は桜が良い。何月何日前後、夕景で描くなら、どこあたりからがいい。等ということが描いてある。旅館はどこに泊まり、バスはどこ行きでどこで降りるなど書いてある。そんな記録ノートがあった。私の場合は全く記録はない。伊豆なら、100回は回っている。だいたいのところは頭にある。伊豆が近いということもあるが、海なら紀伊半島や、佐賀から平戸も良く行った。行くところは大体定まってくる。頭を悩ますのが場所が良くても、講習会が出来る条件の宿がないというところがまた多い。講習会が出来る宿というのは、部屋から描けるというのが、最高である。雨が降っても楽というのもあるが、もっと大事なことがある。梅原龍三郎氏は部屋から富士を描くのに窓を閉じていたと言う。眼前に富士に対峙しながら、直接は見ないまま描くようなこともしたと言う。中川一政氏のように直接対決の人もいるが、それは剛腕の力投かである。大抵の人は見ているようで写している。

見るということは、視角で見るというようなことではない。良く良く見ているうちに、逐一説明に終始しがちなものだ。絵の画面を見ていない。絵は自分の中の者を描いている。見ると言うのは剣豪が戦いに挑んで心眼で視るようなもので、相手の心の中を見ている。次どう出るかは、動き出した時に気付いたのでは遅い。その前に現れているものの方を見ている。絵を描くと言うのは、眼前の風景の向こうに隠された、天地の次の動きを読んでいるようなものだ。山がきれいだから描く。山が持つ何かが自分とどう反応しているかを描く。そのきれいの奥底にあるもの。それが見えない限り、きれいを写している作業では絵でも何でもない。自分が描くべき何物かに対峙するためには、心の中を見る。対象はあくまで窓口。それには部屋から描き、ときには自分の絵だけを見ると言うのも一つのやり方である。

講習会は随分企画してきた。それは絵を描くということが一人でやることではないと考えているからだ。自分の殻の中に閉じこもって描く人も多い。それも絵ではある。私が考える絵は、生き方のようなものだから、磨いていかなければならないと考えている。切磋琢磨するということがないと、独りよがりになる。固まってしまう。良い絵を描くためにやっている訳ではないから、自分の人間の中により深く踏み込むための作業のようなものだ。それには一人は良くない。それでその日描いた絵を持ち寄り、深夜まで話し合う。何故その人がそう描かなければならなかったからを話す。上手い絵のお手本通りにやっていないか。何を見ているのか語ることも、自覚するうえでは大切である。銀座で行う水彩人同人展で、募集をする予定である。

昨日の自給作業:じゃがいもの植え付け1時間 累計時間:1時間

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