八百長相撲

   

大相撲にはがっかりである。まさかここまでとは。昔から常態化していたらしい。泣きたい気分だ。あまりのことでもある。相撲に一銭のお金を払ったことはないから、ファーンという訳ではないのかもしれないが。栃若戦のラジオに手に汗握って、息を詰めて聞き入った。子供のころからの相撲好きである。幕尻に下がった元大関巨漢大内山が、7勝7敗の千秋楽。破れて十両陥落が決まり、引退した。何故八百長をやらなかったか。がっかりである。勝たせて引退の花道を飾らせろ。というようなことも、通用しないから大相撲だと思っていた。大相撲には美学があった。大相撲がスポーツになったところに、問題が生じた。大相撲は文化としての神事であり、江戸時代よりの興行である。近代スポーツ、オリンピック、アマチィヤリズム。こういう考え方に寄り切られたのだろう。

今回の事件はメールから悪事が明るみに出た。お相撲さんが、大きな手で携帯電話をこちょこちょやっているのはカッコよくない。まず携帯電話を禁止したらどうか。話が違うか。しかし、競輪競馬では普通のことだ。そもそも野球賭博からである。携帯電話の通話記録がチェックされた訳だ。とすると、野球賭博にかかわっていないとされた力士の、携帯はどうなっているのだろう。両国あたりの携帯電話は機種変更が、急に盛んになっているのだろうか。根は深かったとしなければならない。一対一の勝負である。真相は闇の中であるだけに、もう以前のような目で見ることはできないだろう。こんな体質なら、プロレス方向に行ったらどうだろう。その方が似合うだろう。と言ってもこれは、大相撲だけの問題と看過できない。厳しいけいこが人間を作るはずだったのだ。厳しいけいこが人間をダメにするということがある。精神と頭脳の伴わない肉体の訓練は、耐える力は強くなり、考える力が弱まる場合がある。

八百長は昔からないとは思わなかった。落語の「佐野山」では角聖谷風が負け相撲を取る。そういうことも含めて大相撲であり、人間の社会だ。きれいごとを言って、批判しても仕方がないと思ってきた。この江戸の人情文化的側面が、平成の拝金主義にまみれた。大相撲の場合、表面にある神事とか、伝統文化とか、相撲道とか、こうした精神面と、あまりにかい離が大きすぎる。許容範囲を越えている。公益法人の認可を取り消される。それでは困るので、問題があるたびに低姿勢を取って繕ってきた。土俵には金が埋まっている。こんなところが公益法人ではまずい。うまく両面を使い分けてきた限界に来たということだろう。プロ相撲なら、それはそれで良い。これは今の時代のすべての問題だ。田んぼをやるのはプロ農家。公営事業なのかどうか。農家はもうからないから、そもそも税金は関係がないが。そうすると、伝統文化事業への補助か。環境対策か。農地の国有化も下手をすると腐る。

大相撲をどこに位置付けるかは、それぞれの考えがあるだろう。伝統的なものの多くが崩れかけている。日本文化というものが、終焉を迎えている。終わり方というのは難しい。ときには文化を持ち出し精神主義を前面に出す。ときには営利を持ち出し経営を強調する。このバランスがどんな分野でも狂い始めている。将棋というものへの関心を失ったのもそれだ。それは経営を強調する将棋連盟の会長の怪しさである。文化を前面に出せば出すほど、裏にある営利主義が目立ってくるものだ。金儲けのどこが悪いのか。こういう居直りも聞こえる。使い分けがどこの世界でも狂ってきている。宗教分野さえ同じである。芸術分野も同じである。そうしてみると農業のように、儲からないということも悪いことではない気がしてきた。

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