日韓小学生ベーゴマ対決

   

あまりに懐かしい話だ。現代風ベーゴマ「メタルファイト ベイブレード」のアジア選手権大会が22日、ソウルで開かれ、日本、韓国、香港の代表が対決した。ベーゴマに明け暮れていた子供時代がある。あの時期があったから、賭博嫌いになったと思っている。そのころ住んでいたあたりには、4か所の、ベーゴマの場が、土俵が開かれていた。そこでは私は間違いなく顔であった。圧倒的に強くて、誰も私が現れると良い有名なベイゴマは出さなかったぐらいだ。近隣での王者ベイゴマは『透明』というコマであった。当時の透明人間という映画から来たのだろう。ベイゴマは、削られ、磨かれ、油につけ込まれて、黒光りをしていた。それそれが工夫をして、削り、磨き、角度を変え、作り出したものである。変則的なコマとしては、ガリ専門の高くたった独特のもので、上部に重しの鉛を厚くつけたものもあった。コマの強弱にこだわる、ガリ禁止の土俵が多くあった。土俵は、ゴムがっぱを、自転車のゴム紐を使って、パンパンに木樽に蒔き付け、後から水をつけながら良い角度をつけたものである。

何が懐かしいかと言って、日韓対決である。私の子供のころ強いベイゴマを持っているのは、朝鮮人のクズ鉄を扱う家の子供だった。もっぱら、廃品回収で集めたのだろうと言っていた。近隣の土俵では、圧倒的に強く名が知れて、誰も私と闘わなくなったので、だんだん朝鮮人部落の土俵に遠征するようになったのだ。私は腕力的にはひ弱な子供だった。朝鮮部落に近付くのは恐ろしかったが、透明という、無敵のベイゴマを戦わないまでも一目見たくて、出かけて行った。その前に私の作ったこまがなぜそれほど強いかというとことを説明しなければならない。必死に腕を磨いた工作技術もあった。設計図の製図までしたのだ。が、姑息に頭を使ったのだ。比重が重く、固い鉄であれば強い。それで、ステンレスのボールベアリングから、磨きだすことにしたのだ。直径3、5センチほどのそれは固い鉄のボールを手に入れて、鉄ノコを使って切った。1カ月かけて半分にした。そしてグラインダーで、6角形に角を入れて行き、徐々にベイゴマの形を作り上げた。ゆうに3カ月はかかった。そして焼入れまでした。目論見通り、どのコマも相手にもならなかった。

そこの土俵も、ガリ禁止のルールは同じだった。恐る恐る入れてもらった。強いものはまずは出さない。小手調べである。大きな金属の箱1っぱい持っているのだから、向こうからしたらいいカモである。まずは投資で、弱いものでさんざん負ける。1カ月ほどかけ仲間になったころから、徐々に強いコマを出して、取り返し始める。いよいよ向こうも本気を出し始めたので、2番目に強いコマを出してみた。あっさりとその時の向こうの一番強いコマをとってしまった。それを繰り返すうちに、今度来たら、透明をいよいよ使ってもいいということになった。それなら、一本勝負ということで、次には自分も、一番のこまを出そうじゃやないかということで約束をする。次の指定の日の土俵には、2,30人が集まっていた。それほどの注目の中、1番目のコマと透明の戦いをした。確かに強そうである。同時入れにしたが、なにしろ唸りまくっていて、微動だにしない。これが、2回目の接触で遠くに飛ばして、勝ってしまった。そうなると、次は次はと戦いを挑んできた。あくまで1番のコマを出した。そうして、山ほど勝ちまくった。

するとおまえはインチキをしている、すべてのコマを返せ。と突然豹変し脅された。もとより腕力は無いのだから、従うしかない。しかし、ずる賢い子供である。透明だけは勝負したのだから、もらいたい。あとは全部返す。と交渉した。すると透明の所有者は不満だっただろうが、他の者は大賛成で、それでいいとなった。これで勝負に勝ったことだけは証明できる。といさんで帰ってきた。次に行くと、もうここでは土俵を開かないという。どうもコマをおどして取り返したことが、問題になったらしい。その上に、あの透明はニセ透明なのだというのだ。本物の透明を出す訳がないと言われた。その後そばを通るたび、また開かれていないか、とのぞいてみたが、土俵を見かけることは無かった。そうして、ニセ透明も何度かの引っ越しで無くしてしまった。あれが本当にニセだったのかどうかは今となっては分からないが、あの黒光りと傷一つない姿はすごかった。いまでもあの血沸き肉躍る感覚だけは残っている。

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