田んぼ共同体
さなぶりが終わった。いつも楽しく今年の田んぼの抱負などを話す。農家ではないので、田んぼをやっている理由もそれぞれである。要するに一人一人の生き方からきている。あえて田んぼをやろうというのだから、少数派の生き方である。出来る限りの制約のない関係の中で、かかわれないかと模索している。田んぼは様々な思いもよらない関係で、かかわりが始まる。普通に努めている若い家族が、田んぼをやってみたくなる時代。ここまでは農の会の話。昔の地域でも田んぼは共同体として運営されていた。どんな感じであったか、記憶をたどってみる。私の記憶は山梨の境川の山間部のことである。
田んぼをやるためには、水が必要である。管理できる水は基本的に足りなかった。飲み水がなければ暮らすことはできなかったが、一応飲み水に困ることはなかった。しかし、田んぼが出来るほどの水が確保できる集落は、豊かな恵まれた一部の集落であった。その好条件は長年の力関係と複雑な共同体の調整の中で、ある程度落ち着いた形で、おさまっている微妙なものだった。有力な古くからの地域もあれば、限界集落と今なら呼ばれるような、貧乏開拓集落もあった。いずれ、水の関係を取り巻きながら、地域間の何とも言えない微妙な関係があるらしかった。生まれた藤垈集落は山の奥のほうで、川があり上流部だからといって田んぼをやることが許される空気はなかった。水が足りないとなると、子供には恐ろしいような険悪な空気になった。これは集落内の問題であるが、下流の集落との関係では、共同して対応しなければ、集落全体が水の確保が難しいような微妙さがあった。
戦前のギリギリ食料を確保している状況の中で、満洲への開拓、ブラジルへの移民。その引き上げ社がひしめき、生きてゆく農地の確保が難しいという現実。その中で、融和を図るのが共同作業である。。手植えの田植えをお互いにやりあうことは、共同体形成に必要なことだった。自分の家の田んぼは実はよその家で植えてくれる。自分はよその家の田んぼを手伝いに行く。この関係は、監視する関係でもあり、支えあう関係でもある。ここに神事としての、田んぼの神様がいる。どの道神様の采配によってすべてが行われている、という建前であり、信仰であり。日本人の生き方である。田植えは女性が行う。采配を振るうおとこしはいたが、女性が圧倒的であった。ある意味スポーツ大会の雰囲気があった。どこどこのおなごしはどれだけうまく、速くうえるか。地域によっては、県大会のようなものまであった。これは娘さんの腕の見せ所でもあり、これで働きもんだの評判となれば、一番の玉の輿となる。
暗いうちの苗採りから初めて、1日一人1反も植えてしまう。大会記録としては2反植えがあるそうだ。以前挑戦して、5畝植えるのが精一杯であった。大勢で植えるから、狭い田んぼばかりだったので、何軒分もたちまちに終わって、合同のさなぶりが振る舞われた。もちろん、植え手と同じくらい料理担当の準備も力が入った。すべてがお祭りごとであった。親戚からの手伝いも来た。これが共同体形成には、とても重要な行事であった。田植え機が来た。働きに出れば、田植え機が買えた。苦しい山村の暮らしは、終わった。今では想像ができないくらい盛んだった青年団の活動。明るい農村を象徴するような新しい活力ある空気。失われていったものは、あの前向きな気分である。
昨日の自給作業:コロガシ2時間 累計時間:9時間