言葉と政治
中国は日本どころでない、格差社会である。中国の社会主義と能力主義の関係はどうなっているのか。まさかこうなるとはと言う不思議であり、中国人らしく興味ぶかい。実際の中国は階級社会ではないのだろう。格差とはきわめて政治的な、標語としての言葉だと思う。現代人の中に上手くアピールされた言葉。階級社会と何が違うのか。格差は階級とは何が違うのか。そもそも格差とか階級の無い社会があるのだろうかとか。いつの時代と較べて格差は経済だけをさすのか。いつ広がったと言うのか。しかし、この言葉がひっくるめられて表現した状況は、まさに現実を反映している。階級より、格差のほうが経済限定のようだ。世界的状況をまとめて表現する、言葉として広まったのだろう。この言葉の意味する所を分析的に考えても意味はないようだ。格差社会だと言うスローガンで、攻め立てる方角に意味がある。
同じような使われ方をする言葉に情報操作とか、説明責任とか、がある。隠そうとしている、と言わないで、こういう言方をされるようになった。これが、大臣の任命責任とか。検察の陰謀とか。こう言う言葉を使うと、反論とかがすぐ出きるので、使いにくいことになる。事実は別にして、遠まわしに外堀を埋めるような、言葉の使い方が広がっているのだろう。説明ぐらいしろと言われると、避けがたくなる。言葉は事実を云々するものと、事実の周辺の雰囲気を表わすものがあるようだ。説明そのものの内容が問題であるのでなく。説明が不十分であるという所が問題になる。これは、トヨタの説明でも、ブレーキの問題がどうであるかより、その説明や対応の仕方が問題化してゆくのである。ある意味市民社会の成熟化の過程の一断面である。単純に白黒では判断をしないようになっている。裏読み、深読みが、一般的になる、一億総評論家的時代とも言える。
いいことばかりでもない。却って追及が甘くなりがちである。検察は悪だ。検察の小沢追及は謀略だ。こう言うような極論は出にくくなっている。発言者を原理主義的危ない人扱いになる。しかし、現実社会の行動と言うのは、極論から生れる。行動の無い社会、バーチャル社会での政治的言葉の誕生。階級社会が死語のような感じなのは、原理主義的だからだ。ある枠組みに当て込んでいるようだからだ。全てがはみ出ているのが、実際の社会である。その本質をどう見るかが、こういう言葉につながる。本当は階級社会なのだ。それでは拒絶されてしまうので、間違った言葉ではあるが、格差社会の方が流布しやすい。日本は65年前アメリカによって、階級は一端は破壊された。そして、階級が再形成されている。こんな風に書けば、私の範囲ではないと言う市民社会の空気がある。
政治において行動と言葉の乖離がさらに進んでいる。行動の伴わない標語言葉。これは鳩山氏が正にそうだった。明るい日本を作ります的に、発言はなかなかいい。しかし、それをやるのは自分ではない。というような空々しさ。ツイッターをやったと言うが、正にそんな感じの人である。政治家の言葉は行動の裏づけがなければ、単なるクレーマーである。モンスター化したグロテスク市民とでも言えばいいのか。政治家が嫌われ、疎んじられる原因だろう。政治家側に立つとこのことには気がつきにくい。分かりやすく、鳩山氏がやるべきだったのは、基地の国外せめて県外移設。もちろん出来ない事もある。その場合二つ道があった。沖縄のほかの部分で負担軽減を実際に実現する。もう一つは、アメリカに対して見えるように交渉し。アメリカの理不尽さを、国民に分かるようにする。