国松長官狙撃事件
国松長官狙撃事件が時効になった。15年が経ったと言う事である。驚いたことには警視庁が、「オウム真理教による組織的なテロ」で行った事件であると、断言したことである。暴挙である。どれほど悔しいとしても、やってはいけないことを警視庁はやってしまった。節度を失っている日本人という、無様な姿が見えてしまって情けない。15年間捜査をして、逮捕し、検察庁に送るだけの、証拠を集められなかった、自らの不甲斐なさをかみ締めるべきことだ。今日から一ヶ月間警視庁のホームページにその内容が掲載されるそうだが、現時点では見つからない。冤罪事件との関連、裁判員制度の問題。ここにまで及ぶ問題である。この事件は当初からおかしな展開だった、逮捕して取り調べた事が何度もある。狙撃犯であるという自白をした、元警察官まで登場した。全てはオウム関係者である。オウム強制捜査から引続いき起こされた、いかにもオウムだろうと言う、事件であった。
犯罪という不可思議なものは、犯人が捕まらないことはままある。そういうものである。いいことではないが、真犯人が見つからない犯罪というものはある。それは残念な現実である。その現実から出発しなければならない。ところが、警察国家という意識が高まれば高まるほど、必ず犯人は逮捕されるもの、その罪を償わせるもの。と言う命題が高く掲げられる。しかも、長官が狙撃された、親分が狙撃された暴力団と同じだ。仇を討たなければ面子が立たない。面子だけでなく、組織が持たない。徹底してオウム内部を調べたのだろう。そして出てきたのが、内部の警察官による、犯罪と言う現実。身内の恥をさらせない。捜査手法批判から、警視総監の更迭と言うことになったようだ。自白犯の登場で、逮捕、釈放。警視庁は権力そのものが揺らいだ。全てが、まるで監獄の松本死刑囚の悪辣な指示のようである。演出に乗せられて、あたかもの推測の発表を行うことまでが筋書き。
このような発表でテロ集団を押さえ込もうという発想が、無理である。警視庁にしてみれば、オウムに健全な人間を近づけない効果というものが期待できると、考えてやったことなのだろう。オウムのような集団は、社会には繰り返し登場するものである。今でも新たな集団がどこかで、あらたな良からぬ事を暖めている。それを力で抑えようと言う社会であればあるほど、反社会的集団は芽生える。浜の真砂である。自殺者がこのところずーと、10万人いるのである。自殺する変わりに、とてつもない殺戮をする人間も登場している。親が子供をいじめて、自分の抑圧のはけ口にする地獄である。こういう社会で、おかしな宗教が芽生えない訳がない。そのつもりで、どうすればいいのかを考えるしかないのである。力で抑え込もうと考えれば、より抑圧が高まり、問題はむしろ深刻化する。ロシアで繰り返されるテロを見れば、その深刻さに気付くべきだ。
やるべきことは一つである。不時着する事だ。今までの方角が間違っていた事を認めること。警視庁がオウムに違いないと言う、想念に取り付かれていたとしても、それをぐっとこらえる力をつけることだ。警察らしく言えば武士道である。社会の方向を変える。競争社会を止める事。能力主義を止める事。人間の幸せがどこにあるかを考えるという、なんでもない原点に戻る事。そういう社会になれば、攻撃すべき権力が無いのだから、テロ集団など登場しない。犯罪者がいなくなるとは思わないが、オウムのような犯罪を容認するような宗教は生れない。オウム事件の際盛んに論議されたが、何故社会で競争を勝ち抜いた有能だとされる人間が、松本死刑囚に洗脳などされたのか、である。勝ち抜けば勝ち抜くほどより深刻な競争に入るからである。オウムの主張はなかなかのものであった。それしか社会を改革する方法は無いと思い込まされる、そういう論理を持っていた。もっと有能で、韓流スターのような見た目も増しな教祖が登場した時を考えておいた方がいい。