泥窯焼き展終わる。

   

笹村展示室の最初の展示として行った。「泥窯焼き展」が終わった。この間毎日どなたかは見に来ていただいた。特に21日の初日には醤油の仕込があった。最終日の28日には機械整備があった。両日にはとても沢山の人に見て頂く事が出来た。素晴しい一週間を過ごす事ができた。朝起きて、展示室で皆さんの40点あまりの作品をぐるっと見て回ることは、とても楽しい事だった。作品という物には、それぞれの魂が宿る。不思議なものである。何故なのか、多分そのあたりの石ころを拾っても、不思議な魂の感じはあるのだろう。何しろ、Tさんは作品作りの日に、どこかに石ころを探しに行ってしまった。結局制作の間見えないままで、後から5点の作品が届いた。石ころを元に作った作品だそうだ。それぞれ違うサイズの丸い石のような塊にぽつぽつ穴が開いている。上部には大きな穴が開いている。同じようなすがたの形が大小あって並んでいる。これが見るほどに面白い。

指導していただいた、兼藤忍さんは独特の作品を作る方である。造形作家というような肩書きになるのだろう。いわゆる陶芸作家と言う方ではない。ホムページの作品を見て戴くと、そのユニークさはどなたにも伝わると思う。使えるような使えないような、置物のような、自然物のような、宇宙のような、生命体のような、祈りのような、、、人間の中に、心底にある希望とか、懺悔とか、そういうそれぞれの心に宿る思いを形にしたら、こんなになるのかな、と思わせるような造形物である。自然物であるとすれば、植物的であり、連鎖的であり、貝殻のようであり、珊瑚のようである。以前、華道の作家とコラボレーション展をされていたのは、的を得ている。だから、植木鉢を作ると言う、テーマで何を作るのかはとても興味があった。植えられた草が、何10年も前からそうであったように植わっている。

私の作ったものは、実に意図的である。こうであるという札がついている。こ特徴ではあるのだが、とても困る。わずらわしい。普通である事ができない。絵を描く人間の自己顕示欲というか、傲慢と言うようなものが、出て来てしまっている。当然、これがなければ物は作らないようなものだから、仕方が無いのだが、これを超えなければ、結局人には伝わらない。同時に壁に飾ってある絵も、なるほどそうだと言うような、いまさらの事に気付いた。やはり展示室を作った甲斐があった。作品と対峙することは大切である。人の目にさらすと言う事はさらに大切である。自分の作品に出会うと言う事がある。描いただけでは実はまだ出会っていない。出会うためにはそれ何の仕組みが、儀式のような面倒くさい仕組みが必要なようだ。

笹村展示室は、時々公開もしよう。出来れば、地域の文化祭に合わせて、久野文化祭との連携のような形が出来る時が来ればいいと思う。今回始めて展示室の公開という、いわばアトリエ展の様なものをやってみて、久し振りの個展といえば言える。どこか会場を借りて行う、出張っていってみてくれと言うのと違って、とても気楽に作品発表ができたことになる。もうこれからはこれがいいという事が分かった。長い間、作品の発表のあり方が、見つからないでいたがいいやり方がわかった。そのうちもう少し、形を整えて、作品展をやってみよう。

昨日の自給作業:機械整備講習2時間 累計時間:21時間

 - 水彩画