日本農業の再生1

   

農業の再生は可能か。この問題を考える時。世界の食糧生産をどのようにするかという、人類的な食糧の安定生産の仕組み。この方向を作り出すという、途方もなく大きな問題と、久野の舟原の農地を、私という個人の管理が可能であるか。こうした、両極の問題を同時に考えなければならない。そのために、問題が複雑化して、見えなくなりやすい。しかし、問題の本質はどの段階の、どの場面を考えるにしても、この両極の問題が連動している事を忘れると、混乱を始める。当然小田原の農業を活性化する方法を考えるためには、この両方から考えてみないとならない事である。具体策はその上での事である。

ウミガメは5000の孵化した子供の内、戻って来れるのが1匹という中で生きている。4999匹が死んでしまうと言う事は、悲惨でも、不条理でもない。そういう仕組みが維持されることが、ウミガメという種の生存に必要なことである。人間という種も少しも違うものではない。その土地、土地において、生産可能な食糧の量に応じて、以上には生きることは出来なかった。その特定地域が食糧を作りやすい所で、必要以上に作られた食糧が、食糧生産の出来ない所に、大量に移動する事が起きたのは、20世紀の事だ。本来人が存在できない場所でも、人間の暮らしが行われるようになった。不自然な人口増加が起こり、人道的な支援という食糧援助が行われる。古代文明においては、人口の増大に食糧生産が追いつけなくなったときが、文明そのものの終末となっている。

現代は、食糧の輸出が経済行為として、拡大することが当然とされている。そのために、食糧生産が出来ない地域で、人口が増えてゆく。その背景として、食糧とは比べられないほどの規模の、鉱工業製品の輸出入が行われている。このように、地球規模で、食糧という水や空気と同等の人間が生きる必須、基本的なものを、生産をしない地域がうまれた。当然のごとく、食糧が鉱工業製品と、同じ扱いをされることとなった。土地の持つ食糧生産能力とはべつの要因で人類は暮すようになった。食糧生産しない、あるいは出来ない国や地域は不安定な要因となる。人類の安定的な生存方法として、出来る限りその地域の食糧生産に伴う、くらしを目指す必要がある。たとえば、石油の生産国が食糧生産を今のうちに確保しなければ、将来大きな不安定要因になると言うような意味で。食糧支援が、飢餓の延長になりかねない、場合もある。

日本人が日本という国土に応じて暮す。この基本原則に戻ること。これは食糧安全保障以上に考えて置かなければならない、種としての人類の要件である。特に、基本的な食糧となる、「お米、麦、大豆、穀類」のようなものは輸出入をしない。これを国是と先ずすべきだ。自給での必要量が日本人が日本で暮す適正密度であると考える。このことを、日本人共通の約束にする必要が生れてきている。車一台が100万円という価格と、お米20トンが100万円という価格は、実は、意味が異なっている。生産コストで較べるものではない。その必要度から価格の意味を考える必要がある。20人の1年間の生存を保障する、お米。これは生きることに必要不可欠で、先ずそれを作ると言うことは、各民族最初の目的として行うべきものである。全てはその上での事である。このことを世界で確認してゆく努力をしなくてはならない。もちろん工業製品の輸出で経済を膨らませて来た日本が、そんな転換を出来るかと言う問題が、次ぎの重要な検討事項である。

昨日の自給作業:キュウリの植え付け1時間 累計時間:18時間

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