トムラウシ山の遭難
夏山の大きな遭難事故が起きてしまった。命を無くされた10名の方の、ご冥福をお祈りする。60を越えた人達が、大雪の旭岳から、トムラウシに縦走をしている。そう言う事が当たり前になった時代。小学生の頃、羅臼岳探検を北海道新聞社が行った記憶がある。自分が登山に良く行った、40年近く前、こういう点では様変わりしている。ある意味登山が昂じて、山北の山の中に住むようになって、山に行く気分がなくなった。学生の頃、30人を越える人数のグループのリーダーとして登った事も何度かある。美術部の白山登山である。年に3度もやったこともあった位だ。もちろん素人登山であるがしっかりした計画を立てた。真剣に行った。山小屋に泊まるとは考えなかったから、テントを持ちである。2泊3日が多かった。季節にもよるが、登山は危険がないわけではない。リーダーの判断力。これが何よりも重要である。メンバーは一人ひとりリーダーが最善の判断を下せる環境を作ることに最善をきす。2人で登るとしても、リーダーは明確でなければ成らない。
出発前の入念なミーティング。ここで日常から充分な頭の切り替えを行うこと。出来れば麓で1泊目を行う。そんなことをいつも計画立案では考えた。「山に行ったら、一番疲れたとき、一番やりたくない仕事を率先してやること。」これは父親から言われた事だ。父は昭和初年民俗学をやっていたので、随分山の中の部落に行っていた。いわゆる登山ではないのだろうが、山の民の暮すところをあちことを歩いていた。今回の遭難では、案内人が3人付いている。当然その判断ミスが全て。あれほどの悪天候を、何故体力の落ちている中、出発してしまったか。遭難当時、トムラウシ山頂付近の日中の気温は8~10度、風速は20~25メートルとあるが、もっと悪かったのではないか。天候が荒れればこの程度は特別の事ではない。天気予報が午後から晴れると言う事だ。私なら、出発の時間を思い切って遅らせる。天候の回復の状況を見る。最終判断は10時ごろにおこなう。頂上には行かない。天気が回復して、10時なら行動は可能。
トムラウシの夏は過去にも、凍死事故はあったはずだ。トムラウシの事故を調べてみると、裁判でガイドには有罪判決が出ている。ガイドなら充分承知のはずだ。何としても判断ミスが残念だ。なくなられたガイドの方は、低体温症で動けなくなった人に付き添って、ビバーグして、いっしょに亡くなられている。加藤文太郎の遭難を思い出す。一人でなら帰ることはできたはずだ。辛い事であったろう。加藤文太郎の遭難もそうだが、自分の予想の範囲を越えた事が起きた。メンバーの力量を量りきれなかったのだろう。良く分からないのは、18人のメンバーがこれほどバラバラになってしまった事だ。どこかで、止まる事ができなかったのか。バラバラに行動することはあってはならない。最初に低体温症で動けなくなったメンバーが出た所で、全員を止めるべきだ。充分体力がある者がいるなら、ガイドと2名で携帯電話が通じる所まで降り、緊急連絡。
2泊目のひさご沼避難小屋の位置が良くない。ここで泊まると短縮路の避難路が確保できない。ひさご沼非難小屋5時30分出発。北沼到着予定が8時半予定が、遅れて昼頃到着。この時点で一向は長くなり、バラバラ状態。3人のガイドの内、2人は動けなくなった人と共に違う位置でビバーグ。この時点で判断力がなくなり、指示なく、バラバラに下山を続けているようだ。かろうじて動ける人と、一人のガイドが、降り続ける。誰かが明確な指示を出しているとはとても思えない。このガイドの人も、遭難し倒れているところを発見される。何故集団を崩したのか。残念である。リーダーの不在。判断ミス。そうしたときどんな事が起きるか。どうしても、今の日本の姿を思い起こしてしまう。金融崩壊と言われた時、日本が経験を指導すると、麻生総理の揚々とした姿。日本は影響が小さいと判断した与謝野財務大臣の姿。二人には次に起こることがわかっていなかった。