朝青龍の優勝
相撲ファーンではあるが、なかなかその時間テレビが見れない。NHKを見ないことにしているので、相撲が見れるのは風呂屋にその時間行けたときだけだ。サウナのテレビで、大相撲が観戦できるのは、極楽のようなものだ。しかし、今回の朝青龍の千秋楽の白鳳との結びの一番、それに続いた優勝決定戦。これは、見ものだった。何度でも、ニュースでやるので、頭にこびりついている。近年まれに見る名勝負であった。名勝負になるには、やはりそれにいたる物語が必要。大相撲は昨年一年散々であった。朝青龍ほどの名横綱が、ここまで言われるのは、どう考えてもおかしい。態度が悪いとか、マナーが良くない。日本の伝統を理解していない。確かに腕が痛くて、地方巡業を休んだ。そのはずが、モンゴルでサッカーをしていた。これは良くない。大相撲はタニマチとかご贔屓で成り立っている。
昔、大相撲の巡業が山北のほうに来たことがあるらしい。この興行を引き受けた人の話を聞いたことがあるが、それは費用のかかるものらしい。この不景気で、巡業が出来なくなって、短縮になるらしい。行くはずの横綱が、休んでモンゴルでサッカーでは、巡業が成り立たない。それでは大相撲自体が成立の基本が揺らぐ。そこで朝青龍は、謹慎処分と言う事まですすんだ。稽古と称した暴力で、若い力士が死亡するという事件も起きてしまった。外国人力士のマリファナ所持。それに便乗した、八百長疑惑騒ぎ。全ての鬱憤が、朝青龍に集中してしまった感がある。相撲好きの1人として、いい相撲が見たいと言う事では、今年の初場所はいい相撲が多かったと思う。良い相撲をとるしか、道はないという事に力士達が気づいた。
朝青龍がパッシングにあった姿を見ると、日本の社会がとても悪い状況であることがみえる。モンゴル人であること。日本の力士を寄せ付けないこと。それが引き金となる原因は、日本人の追い詰められた、余裕のない精神状態があると思われる。東京オリンピック柔道で神永選手がヘーシンクに敗れた時と較べてみる。神永選手を責める空気はあっても、ヘーシンクを非難する空気はなかった。むしろ、敗れた神永選手を気遣い、喜びのあまりマットに駆け上がろうとする、コーチを厳しい顔で押しとどめた。後にヘーシンクはプロレスラーとして、日本のリングに上るが、柔道の姿を守り、プロレスを理解できないまま、選手としては大成できなかった。心技体、と言うがむしろ、ヘーシンクの方が柔道精神を深く理解していた。それはオリンピックに優勝して、総合格闘技に進みたいと言う、日本選手を見ると、日本人に失われたものが見える気がする。
モンゴル人である、朝青龍にはモンゴル流の相撲精神と言うものが、失われていない。決定戦の後思わず両手を挙げたのもそこからきている。彼に日本の相撲道を伝えられていないのは、相撲界に既に相撲道というものが、希薄化した、形骸化した結果である。オリンピック優勝者が総合格闘技に進むなど、まるで柔道を違った形で考えているようだ。スポーツでなく、武道として、武士道として、修養の道と考えてきた、伝統としての何かを失っている。強ければ良い。これがスポーツの精神になってしまったら、スポーツは精神を蝕む可能性もある。朝青龍は最後の仕切りが終わると、左腕を大きく空に上げて、力強く羽ばたくように、振り落とす。なかなか美しい形となる。これはモンゴル相撲の鷲の踊りから来ているのだと思う。江戸時代、独り相撲の芸能が存在したと言う、特に負け方の見事さが、讃えられたと言う日本文化。