『日本で最も美しい村』
岩波書店から出た、佐伯剛正著の本だ。標津町、美瑛町、赤井川村、大蔵村、開田高原、大鹿村、白川村、下呂市馬瀬、上勝町、南小国町、宮崎高原町、以上11の村の話。何とこの村は、全て訪ねたことがある。絵を描きに行った。ただ通った程度の所もあれば、何度も通った所もある。集荷場でそらやさんが、読みたい人があれば、どうぞと言う事で、友人の出版社の方からまわって来た本らしい。フランスでの最も美しい村の活動は聞いたことがあった。その思想を受け継いで、日本でも美しい村連合を立ち上げているらしい。さすがここに並んだ村は何処も美しい。一番通ったのは、開田高原だ。1000メートルを越える高原地帯に普通の農村がある。小川が流れ、田んぼが開かれ、だから開田の地名がある。そんな所は開田高原以外、何処にもない。私の知る限り、1000メートルを越える田んぼ地帯は、小淵沢付近にもう一箇所あるだけだ。
北海道の村が、3箇所あるが、これは又別物である。別格と言うのか。村の佇まいが全く違う。農村のあり方も違うし、田んぼや畑の景観も全く違って、絵を描くと言う気持ちにはなれなかった。たぶん自分の内側に宿す、暮らしとの村と、結びつかないのだろう。大蔵町は山形の最上川沿いの街、山形には大蔵村と同等に美しい村は沢山ある。雪深い出羽三山と鳥海山の間に位置し、棚田と広がった田んぼに浮かぶ、島のような丘。山形市から、酒田に流れる、最上川の雄大な景観が、続いてゆく、日本の原風景といえるよな、「おしん」の空気が思い出される場所。どうも寒い場所が美しい。暮らすのが大変だと、雪に埋もれるような緊張感がある場所が、美しいと感じるようだ。東北には美しい村は幾らでもある。今、限界集落と的確だけど、住んでいる人には辛い名前で呼ばれるような村は、何処も美しい。やっと維持されている山間の棚田を見ると、風景を作る人為の素晴しさが、静かに光っている。
集荷場では、自分の住んでいる苅野の辺りも美しい。と言う意見が出た。それなら、私の住んでいる、舟原だって中々の物だと言う話になった。美しいと言う言葉の中には、自分が住んでいる愛着も含まれている。住んでいう人がその美しさを作る。育てている。この愛情のような物が、一番の要素だ。貴いと思う気持ちが無ければ、美しいと見えてこない。そう言う事は風景を描いてきて、だんだんに判ってきた。だから、以前は日本中を回って、形態的に美しい所を探していた。自然が美しいと言うような意味だ。しかし、人間が風景を作り出しているのであって、植林された見事な山林が美しいと言う、感触がわかってきた。これは長年感じられなかったことだ。植林された林を見ると、自然が痛められ、無残としか感じられなかった。
人工林でも美しい森林はある。美しい村には必ず、すごい人工林が周辺を取り囲んでいる。ぶなの森であっても、薪炭林の管理が、森を作り出してきたものだ。原生林と言うような物ではない。四国の上勝町。九州の南小国町、高千穂の高原町。何処もすごい森が果てしなく広がっている。森での営みが暮らしに繋がっている。そうだったんだと日本人の暮らしを思い起こさせてくれる、生活がある。フランスの美しい村を絵にしたいなど思ったことがない。そこにあるものはフランス人の暮らしであり、絵にしたいような繋がりは、自分の中に湧いてこない。日本人が日本人の暮らしの美しさを、思い出し、繋げて行く。それ以外に、充実した生活と言う物はないのだと思う。この本は色々の事を思い出させてくれた。