教員の採用汚職

   

昔の事にはなるが、教員をやっていたこともある。何とも嫌な事件だ。気に成るのが、この広がりだ。大分だけの事だったのか。過去にもこうした事件はあった。広がりというのは、これを調べている、大分県警の採用だって、似たようなことはないのだろうか。というより、どんな会社であれ、縁故採用はありがちなことだろう。公務員というものは、当然禁じているわけだが、一般社会では、このぎりぎりの所は多い。教員というものを私物化するような意識が、自分の身内、関係者を優遇したいという、人間なら必ずそう言う事になる。「教育者にもかかわらず、なんたることか。」「こんな教員に教えられる子供がかわいそうだ。」こんな正義の論量が目立つが、身に覚えがないか。渋谷洋画人体研究所で、クロッキーを週2日やっていた。そこには、新制作の彫刻家、加藤昭雄氏が来ていた。武蔵野美術の教授でもあった。いつも満席なので、少し遅れると、描く場所も椅子もない。そこで先生の場所を友人が取っておいた。先生が来てどうぞというと、何のことかと気付かないように、黙って隅に座った。

ハッと打たれるものがあった。ついこういう程度の事は当たり前の事である。特に偉い作家ともなれば、堂々、前の席を弟子に確保させておくような人もいた。なるほどいい作品を作るというのは、どう言う事なのかを教えられた。しかし、大分の汚職採用の教員に、教えられたからと言って、可哀想でも、困る事でもない。そんなものだ。他人事ではない私だって少しも変わらない。だからハッとしたのだ。自分を棚に上げて、攻め立てているような、教育関係者に教わることだって、子供にいいのかどうか。県会議員の枠がある。なるほど、そうだろうと思う。県会議員自身が、大体そういう枠で、議員になったのだろう。投票だから、必ずしも公平などといえない。世襲議員の増加を見れば、世の中閉塞して、流動性を失ってきているか良く分かる。

昔は、30年前は、日本中当たり前の事だった。こういう発言をする人も居るが、私が就職をする時代だが、今よりひどかったとはとても思えない。そんなコネの話は、聞いた事もなかったが、あるだろうとは思っていた。今のほうが、陰湿に成ったという感じはある。仕事の能力と成績が、一致しない事は、誰でも知っている。会社は経営という所で、シビアーであろう。社長の息子が、跡を継いで、駄目にする大会社も結構在る。1人だけ、大会社の息子を子供の頃から、知っている。彼はとてもいい人間だが、会社経営には向かないと思れれていた。いわゆる成績が悪かった。彼が大学に入学する時、その会社は大学に立派な体育館を寄付した。繋がりは知らないが、想像はできた。彼が卒業する頃、その会社は合併してしまい、同族会社的経営を止めた。そんな風に新聞では書かれた。

情に棹差せば流される。 意地を通せば窮屈だ。 とかくこの世は住みにくい。この辺のバランスが微妙。大分は誰が考えても、異常事態。犯罪にならない異常事態は、今の社会に蔓延していないか。常識化していないか。絵の世界もまさに、こんな事ばかりだ。日展入選が、100万円。払って入選した人が、個展をやって元を取るといっていた。芸術院会員は億の金がかかる。こう言う事が普通に言われている。大から小まで、同じ体質から出ている。こう言う事は、少しも良くなってきている感じがない。せめてそういうところから、距離を置いて生きたいと思えば、社会から距離を置く事になってしまう。それもまた、いい事ではない。清濁併せ呑む、というのが、議員の特技らしいが、潔癖症というのは病と言う事になっている。

昨日の自給作業:コロガシ1,5時間、草刈ほか1,5時間 累計時間:12時間

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