「風の道」和田傳
高座豚の話だ。高座豚のコンクール的改良の歴史が読み取れる。鶏の改良の世界はそれなりに見てきたので、高座豚には、高座豚の名人達の歴史があるに違いない。と想像出来る。戦前、「沃土」「大日向村」を書いた作家が、戦後「鰯雲」「風の道」を書いた。大日向村の事が、満蒙開拓の事が、気になって大日向村の事は実際の事であるし、その後の軽井沢での激変の歴史を思うと、和田傳はそうした事をどう考えていたのか。農民作家といわれることもあるこの作家を少し考えてみたいと思って読んでいる。「風の道」は私の知る時代の、私の知る場所の、しかも私が少しは想像出来る豚屋の話だ。豚屋と言う言い方は問題がありそうだが、養豚家では少し違うイメージの世界。ここに出てきてもおかしくない人を何人か知っている。ある意味今だって大きく変わってはいるが、高座豚を作り出すのと、似たような世界がある。
高座豚は要するに、中ヨークシャー種の豚の改良の事だ。豚といえば、我々世代には、ヨークシャーとバークシャー。イギリスで作られた豚だ。「三匹のこぶた」はヨークシャー種。可愛らしい豚のイメージを確立した。バークシャーの方は鹿児島の黒豚。いまでも銘柄豚で、こっちの方が人気だ。今では実際に養豚に使われているのは、イギリス系のものはなく、アメリカや、デンマークの、これらより倍も早く大きくなる豚の方になる。高座豚も忽ちに廃れていった豚の品種だ。その後の事が分かっているだけに、この小説は種豚の改良という角度からは、中腹な感じになる。改良の方向の目算違いだ。消費者の読み違い。業界の変化の読み違い。畜産試験場の人も登場して、指導などするのだが、技官達の馬鹿にされ方がまたすごい。兄がまさにそんな仕事をしてきたので、肉親としてお詫びしなければならないような、申し訳ない気に成る。
小説としては「農村風俗小説」と呼べばいいのだろうか。農民の風俗を書いているとしか言いようがない。農民作家というのが、実際の農民であるとすれば、この人の場合は、地元の名士で勲章をもらう、厚木の名誉市民だ。よくよく農民を観察しているが、観察というのはこう言う事だ。そういう限界も、同時にある。加えて、ここに登場する女性像が、実に浅い。ここに登場するような女性を見たこともないし、いるとも思えない。私が怒りを感じるくらいだから、女性には読ませるわけにはいかない。農家の叔母さん達は差別だと怒るだろう。と言う事は、農民の方も、こんな農民いるわけない。と言えるのかといえば、農民の方は確かにこんな人がいる。豚屋にもいるし、試験場にもいる。鶏の品評会にもこういう人が集まる。
ゴルフ場が出来てゆき、農村崩壊の経過も書いている。しかし、善悪には触れない。壊れてゆく里山の背景は詳しく、実感がこもって書かれる。しかし、それをあくまで観察者としての目で書く。視点やテーマ性がない。善悪の判断を避けるし、巧みに遠ざける。この姿勢が、実は里山の崩壊を進め、高座豚の衰退を招いたのではないか。高座豚の考え方は良かったと思う。健康志向の、農家養豚可能な豚だ。それがアメリカ方式の巨大養豚場に飲み込まれて行くことに対し、良しでもないし、悪いでもない。傍観者的態度だ。今になって高座豚の復活が言われている。これが又、時流に乗るだけの、方向性の無い目論見であれば、結局は一時的な潮流に乗り、流されて終わる。小説を書くという行為は、何なのであろう。大日向村に対する、政府の責任と言う事は、全く問われていない。第2、第3、の大日向村が出来ていったことに対する、和田傳氏に少しでも反省はあったのであろうか。ここが読みたいと期待したが、「風の道」は結局大日向村の繰り返しの道を、眺めただけに終わっている。