「水彩画の事」
水彩画の事と言いながら、油彩画の事から書き始める。敦煌の壁画の分析で、ポピーオイルと、ウオルナットオイルが使われていた部分がある、と言う事がわかったそうだ。つまり、芥子油と胡桃油。今の油彩画と同じことだ。9世紀の事となる。従来油彩画は11世紀のヨーロッパ板絵で使われたのが、その始まりとされてきた。しかし、あの今世紀最大の文化財破壊となるであろう、バーミヤーンの石窟画では、既に油彩画の使用が確認されていた。最近その詳しい報告ができたが、膠の使用や、下塗りとしての、シルバーホワイトの使用までほとんど、現代油彩の基礎は出来ているようだ。それが敦厚の壁画でも、同様の技法が見られることが確認された。このような確認からすると、油彩画は従来の推測よりもはるかに古く。たぶん、5,6世紀、中央アジアの岩壁画制作で開発された技術であった事が見えてきた。ボッチチェリー以上と思われるような、ビーナス像が描かれたものなど、その内容もルネッサンスを越えるような、レベルの高いもののようだ。テレビの影像で見ただけなので、どうも今はロシアの方に運ばれてしまったようだ。見てみたいものだが、かなわない夢だ。
中央アジアでは、10世紀以前にほぼ確立していたと思われる油彩画技法が、何故中国では定着しなかったのであろう。中国画は日本画の源流で、同じ技法である。紙や、絹布に墨や岩彩を用いて描く。サイジングは膠である。岩壁画での油彩技法の必要性は2点考えられる。濡れ色の表現と鮮やかな彩色表現。石の上に描くわけだから、当然遮断層が基盤に必要になる。壁を作るように着彩するとして、膠に白い顔料を混ぜて、下塗りをしたようだ。その上に描いてゆく。フレスコ技法よりも、油彩技法の方が、リアルな仕事が可能になる。色の鮮やかさ、濡れ色の表現が可能になる。宝石や金銀の耀きをリアルに描くような仕事が、可能となる。細密技法は中国でも行われており、まるでデューラーのような絵も10世紀にはすでにある。それでも油彩技法を取り入れることは無かった。この中央アジアで油彩画が成立したのは唐時代にあたる。唐は絵画も文学もあれほど栄えた時代で、中央アジアからも、多数の画人が長安を訪れたはずだ。遣唐使との出会いもあったに違いない。
にもかかわらず、油彩技法は壁画からは出なかった。当然日本にも渡来していない。油彩技法を全く必要としていない。油彩で描く絵を、絵画として見ていない。中国での唐代の絵画は思想的なものが重んじられている。壁画が実用的なものであって、紙や絹に描く絵画は書物に近いもの。壁画がペンキで描かれる、看板であるとすれば。絵画は墨(色墨)で描く。それが日本画学んだ絵画の源流。日本は文化の終着点、冷凍保存倉庫。中国では変化重ねていった絵画も、日本では天平、平安の文化として、一貫した流れとなる。新たに流れ込んで来る文化がない為に、冷凍保存が、冷蔵に、温存になり、日本的に熟成する事になる。よって、何故中国絵画が、油彩に興味を持たなかったのかは、日本画の流れを見れば、よく分かる。枯れススキ文化だ。絢爛豪華な金銀財宝はいらなかった。朝鮮の日常品を井戸茶碗として尊びる精神。油彩技法の付け入る隙が無かった。油彩はペンキ看板。
明治期の愚かな、西欧崇拝。愚民政策の展開。江戸文化の否定。背景には、背伸びした帝国主義。ここに相応しく、油彩画の展開が始まる。大げさな表現が、必要となる政治的背景。しかし、そうした成果が実るのは、スーパーリアリズムと言うイズムをつけるほどの内容ではない、即物主義の登場を待つ。いよいよ、文化的な低下のなかで、写真的リアルぐらいしか、頼る所が無くなった結果のみ。日本の本来文化的伝統や感性では、油彩画を必要としたことは無かった。梅原、中川、のような日本的油彩画と呼ばれるものは、本来の使い方からするなら、相当の無理を重ねたものだ。もしこれらの才能が、岩彩で展開されていたなら、と思うと、実に惜しいことをした。
水彩画とは、岩彩の一手法と考えた方がいい。アラビヤゴムと膠という糊の違いだ。顔料の大きさが、微細だと言う事もあるが、色墨を考えれば、その細かさは同じこと。固形水彩絵の具は、色墨と同じこと。水彩を考え進めてきて、日本画の事をもっと考えてみる必要を感じてきた。
昨日の自給作業:田んぼの草刈と、粗起こし。6時間 累計時間:10時間