冤罪「志布志事件」

   

 鳩山邦夫法相は「志布志事件」の無罪判決に言及し「冤罪(えんざい)と呼ぶべきではないと思う」と述べた。 鳩山法相は同日午後、自らの発言の趣旨について「冤罪という言葉は、全く別の人を逮捕し、服役後に真犯人が現れるなど百パーセントぬれぎぬの場合を言い、それ以外の無罪事件にまで冤罪を適用すると、およそ無罪というのは全部冤罪になってしまうのではないか」と釈明。「踏み字など捜査上問題があり、被告とされた方々に大変なご迷惑をおかけしたという痛切な気持ちは持っている」と補足した。
冤罪は国家による犯罪である。何がどうあっても、あってはならないものだ。無罪が全て冤罪かと言えば、確かに鳩山氏の言うように、そうではない。しかし、志布志事件は証拠が不足したため、とか、捜査の経過で不適切行為があったから、無罪になったという種類の事件ではない。明らかに、警察、検察が、でっち上げた恐ろしい事件だ。それは裁判で確定し、関係した警察官達は処罰された、冤罪事件だ。これは推測だが、当選した議員を選挙違反にして、落選した議員を繰り上げ当選にしようとした意図がある。

個人が行う犯罪と、国家権力が行う犯罪とは、意味が違う。国家のその責任の重さは、桁外れに重い。権力の意味を充分に考えておかなくてはならない。例えば、警察官が、住民に暴力を振るう事件と、ただの暴力事件では、その本質が違う。その大前提で考えなければならない。例えば、今沖縄で、アメリカ兵による少女暴行事件が、又、起きた。これもそうだ。暴行事件というだけなら、かなりの数ある。しかし、在日米軍という、特殊な権力が、そこに暮す住民に対し、起こした事件は違う。国家権力による犯罪。冤罪は、一国民には、常に恐怖としてある。

私自身、警察官に不法侵入された体験がある。これは署長の謝罪で、けりをつけた。盗聴されていたと思われる体験。要注意人物として、監視された経験がある。これは後に、友人に成った警察官から、聞いた。こうした日常に対する恐怖感は、はかり知れないものがある。このような過去の体験を書くこと事態、ある種の恐怖感がある。権力に監視される人間と言う事で、既に、怪しげな人物ではないかという、レッテルが貼られる。小田原ではオウム関係者だと言う、デマで大変苦労したお店がある。鳥インフルエンザの時は、警察がパトカーで、養鶏場をまわった。これだけで、集落では、何があったのかとあれこれ詮索された。

権力とはそういう恐怖を与えるものだ。本当に気おつけなければならない。法務大臣が、志布志事件をわざわざ取り上げて、冤罪ではない。と発言する。当然「法務大臣だから、何らかの証拠を持ってして言うのだろう。無罪にはなったが、やはりそうか。」こんな風に風評が流れるのが、予想される。新聞や報道は、鳩山氏批判はするだろう。しかし、社会の背景では、こうして差別が起こる。冤罪は罪が重い。そうした家とは付き合えない。婚姻は出来ない。鳩山氏は何故こんな恐ろしい発言を、あえてしたのか。誰かそそのかす人がいて、あまり知性がないから、簡単に乗せられると言う事か。それとも、意図的に発言を繰り返すのか。アルカイダ友人発言と繋げて考えて見ると、単純に「ビシバシ取り締まれ。」と叫んでいる。それを強調したいがあまり、センセイショナルなぎりぎりの事例をだす。相当にたちが悪い。こんな人を法務大臣にしたという、福田総理の責任も大きい。

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