祖父黒川賢宗

   

黒川賢宗は母方の祖父である。曹洞宗の僧侶であった。実に面白い人だった。私が、フランスに居る時に、87歳で死んだので、1883年生まれの人だ。明治16年生まれと言う事らしい。随分厳しい人のように見せていた人で、家庭で笑い顔など見せた事がなかったが、外では、朗らかな和尚さんで通した。どうしても僧侶の家庭というものは、裏表があって、つらいものだが、そういう意味の2面性ではなかった。あるとき、甲府まで行くから付いて来いという。命令は絶対で、有無はないので、黙って付いていった。甲府まで当然歩いてゆく。15キロぐらいある。岡島さんで、デパートの事なのだが、昔はさん付けで呼んでいた。岡島さんに下駄を買いに行く。炎天下、黙々と歩いて途中、水を飲みたくなって、米粒に字を書く人の家に寄った。ともかく小さいものに小さな字を書く、仕事場のようだった。デパートの入り口で、その下駄の事を聞くと、先着10名だと言う事がわかる。

私の母には、体が弱いから、お前は体育学校に行けと言う事を強制して、母は体育の教員になった。男の子ども達が、3人居たので、その子ども達を大学に入れるために、相模原の開墾をやらせた。開墾をやりながら、大学に行けというのだ。その土地は将来必ず値上がりするというのも見越した、やり方だった。その調子で、新小岩にも、家を購入していた。そして親戚の者が住んでいた。田舎の山寺の住職なのだが、何か考えが突拍子がなかった。そもそも東京生まれの人で、駒込にあった栴檀林に通ったといっていた。祖父の父は早く死んで、叔父の僧侶の家に6つぐらいで預けられた。だから、泣きながら、僧侶に成ったらしい。若いとき、北海道に布教に渡った。そのときの話は、大変面白いもので、詳しく聞いておけばよかった。

留萌という所に寺を作ったらしい。昭和30年代になってもそのお寺の住職から、お弟子と言う事で、届け物が送られてきていた。北海道の新聞社に勤めたこともあったらしく、炭鉱夫の潜入取材をしたらしい。枕が長い一本の柱で、それを木槌でゴツンと叩いて、起されたそうだ。熊に襲われた人の葬式を何度かした。よく熊が出て、恐い思いもしたらしい。本山からの仕事として、行っていたらしく、今度は山梨の寺に行けと言う事で、山梨県の境川に来たらしい。境川の向昌院という寺に入り、生涯を送ったのだが、それは、雲から落ちたのだと言っていた。大変な寺で、前住職は自殺したそうだ。どういう経緯か、村役場に勤める。定年と言うのがあったのかどうか。70ぐらいまで勤めていた。食料は自給。エネルギーもほぼ自給。電球など、持って歩いて、必要なときに付けた。電池もそうだった。池の鯉も食糧だった。

私が、大学を出たら、フランスに行くと話すと、それは良い、自分で働いてゆくようにと言った。帰ってこない覚悟で行くように、とも言われた。いよいよ行く段になって尋ねると、いくら貯めたかと聞かれた。100万円ためた。と言うと、同じだけあげようといって、その場で100万円くれた。それで、パリに居る弟子丸泰仙と言う人に紹介状を書いてくれた。それと私の僧籍証明書と言うものがあった。よほど困ったら行きなさいと言われた。その晩布団を並べて寝たのだが、もうこれでお前とは会えないが、精一杯やれば何とかなるから、心配は要らない。その通りで、フランスにいる間に死んでしまった。自分の葬式の時に、松の枝がみっともないから、と高い所に登って枝を切ったそうだ。危ないからと言うと、若い者にはさせられない。と言ったそうだ。自分の葬儀の準備を終えて、あっさり死ぬと言うのは、あまり聞いたことのない人だ。

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