いよいよ収穫の田んぼ

      2016/08/10


田んぼの様子だ。田んぼの一部に神丹穂が植えてある。実に美しい。風景を造ると言う事がある。人が作り出した風景の中でも、何世代も掛けて、作り出してきた田んぼの美しさは格別なことだ。雲南の棚田など、人が作り出した景色の究極の美しさのような気がする。ネパールにも同じような美しい棚田がある。あの中で耕作する、ありがたさは格別のものであろう。ネパールでは棚田の田んぼに木が植えられている。結構な大きさの木だ。その木は稲作の生産性から言えば、明らかに邪魔だろう。でも木陰であったり、風よけであったり、信仰であったり、ともかく、風景を作り出している。風景を作り出すと言う事は、絵を書く事と何にも変わらない。こんな風に神丹穂を一部に植えたことで、田んぼ全体が変わる。ご近所には笑われてしまうかもしれないが、田んぼを楽しんでいるんだと言う事が伝わればいい。

毎年、これでしめ縄を作る。丈が120センチぐらいあるから、立派なものが作れる。今の改良された品種はおおむね、1メートルぐらいだから、なかなかしめ縄を作れる藁にはならないのだ。しめ縄を作る稲は青刈りをする。真っ青な頃に刈ってしまう。それを青いまま保存するの技術が、大変なんだそうだ。どうも納屋の暗い所に積み上げるらしいけれど、発酵してしまわないのがよくわからない。何か工夫があるのだろう。神丹穂もその赤さを残すには、処理が居るが、私は特にそこまではしない。葉っぱもそのままで枯れるに任せる。そうすると全体には地味なものになるが、却って自然に馴染んだいいしめ縄になる。正月を新たに、と言うので、まっさらな、青い稲藁と白い和紙飾り、そこに橙のオレンジ色。毎年カヨ子さんが作る。そこに立春大吉と毎年書く。

美しいのは棚田だけだろうか。日本の田園ほど美しい所はちょっとなかったと思う。茅葺の民家の美しさ、桑畑や、トウモロコシの畑も。自然に馴染むようにすばらしかった。ああした美しさは、偶然の産物ではなかった。自然に対する畏敬の念がその根底にあった。水も、大地も、風も、自分たちの暮らしを、育んでくれるものとして、感謝と愛着があった。だから汚すことは出来なかった。そこには経済の合理性はない。グローバルな経済競争などとは縁がない。田んぼの水路は確かに3面張りにしてしまえば、管理が楽だ。草刈がいらない。農業者の減少と老齢化。この現実を考えれば、U字溝がいい。でもほたるも、メダカも、かえるも居なくなる。美しい地域を作る、新しい仕組みが必要になっている。

小田原では田園優良住宅の条例化が提案されている。農家にしてみれば、農業では食べていけないのだから、農地が宅地利用できるなら、大歓迎だろう。しかし、制限無くやるのでは歯止めない乱開発に成る。優良どころか、環境整備の伴わない、最悪の住宅開発になるだろう。「田んぼのかえるがうるさいから田んぼをやめてくれ、鶏の鳴き声は騒音だ。しかし、田園の豊かな環境には暮したい。」その地域で生活の基盤を持つのではない、そんな都会への通勤者向けの住宅開発をすれば、農村の暮らしの維持が、更に出来なくなる。では地域で、地域の利害の絡む事を話し合えるだろうか。共通の暮らしが失われている中で、殆ど不可能に見える。さぁーここからが難しい。特に他所から来た、「他のもの」の私が出来ること。先ずは、美しい田んぼで、充分な収穫をすること。

 - 9月, 稲作, 自給, 農法(稲作)