舟原田んぼの転がし
2016/08/10
転がしをやった。田車という名前があるそうだ。例年の事で、7月初めか、6月末に成る。次に田んぼに入るのは7月末ぐらいで、手採り除草が必要な時だ。畦の草刈もやった。これが2回目で、やはり、7月末にはもう一回やる。田んぼの中はおもしろい。中まで入って気付くことがたくさんある。土の状態は歩いてみて、色々分かる。坊所との違いはかなりあるが、以外にグズグズのところが無かったことだ。例年一部には田車を押すことさえ難しいような、ドロドロした地域が出来る。それが、全くなかった。土の感触は現状悪くない。稲の根のしっかり度も悪くない。臭いももっと、どぶのような所があるかと思ったが、それほど悪いガスが沸いたところはなかった。草は、ないわけではないが、困るほどあるわけではない。稗も少しはあった。外からは気が付かないぐらいだったが、中央の少し、高い所にやはりあった。
土はいい。田んぼの土の感触は、他に変えがたい充実がある。田んぼの度量の大きさ、何でも含みこんでしまう消化能力を、肌身で感じる。それに答えるには、真剣に田んぼに対する。遊び半分ではいるようなことはしない。田んぼの作業は一種の禊だと思う。だから、いのちの深いところで、田んぼと接したい。だから厳しいことだと思うし、いい加減は嫌いだ。それでつい人にも厳しくなってしまう。これはよくない。先日、大磯の中村さんの田んぼの田植えのとき、2度怒ってしまった。最初は隣の田んぼの叔父さんだ。東京から来た、小学5,6年生が、30人ぐらい居た。その子ども達が、これから田植えをするのだ。それに対して、隣の田んぼの人が、出張ってきて、やり方を指導しようとする。
子供を指導したいなら、お世話をするから、あなたの田んぼでやりましょう。こう言ってしまった。初めての子供に対して、様々なやり方を伝えると言うのは、子供が混乱するだけだ。次は子供だ、キャーキャー言うだろうとは思っていた。それでも結局は入って、田植えをするだろう。それが違った。汚いといって泣くのだ。それなら外へ出ろ。と強く言った。苗を土に植えるときに、指にドロがつかないように、茎を持って押し込もうとするのだ。そんな子供がたくさんいた。あしがらの子ども達とは、明らかに違った。あとで可哀想だったとは、少しは思ったが、土に対して、あまりに失礼な事で、許しがたかった。怒ったら、外に出たが、まだうじうじ泣いていた。今度は私が恐くて泣いている様だった。田んぼを前にしたら、大人も子供もない。更に厳しく、田んぼの外から、田植えをさせた。
田んぼから何かを学ぼうと思うなら、その田んぼからのお米しか食べない。その位いの心構えがなければ、得るものは少ないだろう。得る物と言えば、ソバカス抑草だ。何となくいい経過だ。そこそこ押さえられている。土が良くなれば、更に抑えられると思う。トロトロ層の形成。これがよく言われるが、確かにこれが出来てくると、草は発芽しなくなる。草が出なくなるのは、葉が伸びて、日陰を作るからではない。トロトロ層が生み出す何か、あるいは物理的な状況が作用して、発芽しなくなる。トロトロ層形成と、緑肥漉き込みも、ソバカス抑草も関連している。分からないのは、何故耕さないと、草が出ないかだ。これも、トロトロ層形成と似たような土の変化が、起こるのだろうか。この辺の幾つかの要素が、繋がってくると、技術になる道が見えるのだが。