いやしと言うことば
友人と2人で、暇人同盟を作っている。何故って、毎日、こんなにながながとブログを書いている暇があるぐらいだから、相当に暇人に違いない。と言う事に決めたのだ。その暇人のもう一人が、ムーチョ・ササキさんである。ムーチョさんはウクレレ演奏家だ。牧紳二さんの系統ではない。正統な、親子でウクレレ・コンクールに出場するような音楽家だ。作曲もする。小田原ではちょっと知れてきた、かな。ピースカフェのテーマを作詞作曲されて、歌も歌う。シンガーソングライターというか、メッセージロッカー。ウクレレのロッカーという感じかな。その暇人ムーチョが、いやしを、怒っているのだ。暇人らしくなく怒っている。作詞家でもあるから、言葉には敏感というか。しかしお互い結構忙しい暇人かもしれない。
ムーチョいわく、さっきラジオ聴いてたら、(愛を知った僕は)こんなにもやさしくなれる。みたいな歌詞が飛び込んできたので、内心「でた、でた、またか」と思ってしまった。と書いている。返す刀で、海援隊の「贈る言葉」で、人は悲しみが多いほど、人にはやさしくできるのだから・・・も許せん。という訳だ。なるほど、いやし風潮に腹を立てているな。甘えんじゃない。こんないやみったらしい、やさしさの押し売りが、許せるかい。と言うことだろう。もっともではあるが、暇人らしいかどうかはちょっと疑問。
「いやし」という言葉が急に世の中に蔓延したのは、大江健三郎氏のノーベル文学賞受賞記念講演からだと思う。本人も失敗したと思っているだろう。そんなつもりじゃなかったのに。芸術はいやしだと言い切ってしまった。その時代性としては、この言葉には、変な匂いが付いていなかったから、別段誰もおかしなことを言っているとは思わなかった、と思う。少なくとも、甘ったれるんじゃないなどという、批判が起きたとは聞いていない。このいやしと言う言葉は、使って見ると案外に何にでもはまったのだ。音楽はいやしだ。ゴッホの絵にはいやされる。あの俳優はいやし系だ。ところが、やたら使われるうちに、いやし空間の住宅設計。とか、いやしを演出するお宿。いやしの国○○。当然、鼻について、嫌う人が増えてきた。褒めたつもりの、この絵にはいやされる等という感想には、怒り出す絵描きも出て来た。そんな甘い気持ちで描いていません。などと力みかえる人もいる。いやしは今やどちらかと言えば嫌われる言葉になった。
芸術がいやしだ。という大江氏の考え方は、実は相当に厳しい物だったと想像される。少なくとも私はその話を聞いた時おもった。そんな事は、大江氏の小説を読んで見れば明白だ。環境音楽のような物ではない。不協和音に満ちている。小説を書くと言う事で、生きることを切り抜けてきたと言う事が、芸術はいやしである、の中身なのだと思う。相当に思いつめた、ぎりぎりの救済という意味にとるべきだ。ナールイ時代の語感が染み付いてしまった言葉は怖い。難しい。自己愛的なニュアンスはこの言葉にそもそもあったのかどうか。癒やすは傷が治ると言う事。怪我などで開いた部分がくっついてゆく事のようだ。だから、そもそも自分の内部にキズがあるという、ことを自分で言ってしまうことで、私は大変なんだ。と人に見せてしまう甘ったれた感じがこの言葉に加わったのだろう。癒やしと言う言葉は使わなくても、そんなことっていろいろあるな。暇人らしい観察ができたかな。