水彩人春の研究会

   

水彩人では、昨秋には東京都美術館のアトリエで、研究会を行った。春には志賀高原で、研究会を行う。いつも利用させてもらっている木戸池温泉ホテルだ。随分長く使わせてもらっている。この研究会では、絵を描く事の意味を、深く追求してみようとしてきた。絵が上手になる為の研究会と言うのは、いくらでもあるだろうが。絵というものがそもそも何であるかを、研究しようと言う、研究会。いわば、水彩画学会の集まりのような気持ちだ。絵を描き始める、動機と言うものは、それは様々だろう。昔、大学の美術部の入部希望者に、老後の楽しみにしたい。このような希望を述べた人がいた。人の意表を付いて、存在をアピールしようと言う若気の至りも、あったかもしれないが、動機はなんであれ、絵は描けば描くほど、その明確な意味は遠のいてゆく。

そういえば、大学の美術部で語り合った、小難しい絵画論を今でも何も変わらず続けている。変われなかったようだ。絵のほうも同じ事で、さして、変わっていない。将棋が強くなる時には、前の考えを自己否定できたときだ。だから、私の絵はよくなったと言うことや、深くなったと言うような事は殆ど感じられない。理屈が通らないような事はやりたくない。理屈が整理できないような絵も描きたくもない。何を描きたいか。言葉に出来るようにする。その言葉を紙に書いて張り出しておく。気持ちが揺るがない状態で絵を描く。もちろん描いていれば、我を忘れて、思わぬことをしてしまいがちだが、出来うる限り思いとどまるようにしている。

そんなやり方でいるから、他の人の絵も同じに見る。その人がやりたいことを聞く。掘り起こす。自覚を促す。大抵の人は、建前でごまかしてしまう。もちろん悪気ではなく、絵を描くと言う事を、多くの人が建前で考えているようだ。建前と言ってしまうと違う人もいる。いい絵を描きたいと言う欲望によって、褒められそうな、絵を描いていたりする。下手は絵の内、上手いは絵の外。と熊谷守一氏は言ったそうだが、上手い絵は自分の人格と無関係になりがち。写真のように描く人が多数いる。これも人格の消し方だ。混乱すると、生き写しが出てくる。こんな絵がくだらないと言うのはわかりやすい。自分が上手いと考える絵の生き写しをやり続ける場合が、実は大多数なのだが。これをみわけて、剥ぎ取っりあって、生きている人間の、切実なところで絵と接したい。

30名が現在参加者数だ。丁度いい人数になりそうだ。この季節の志賀高原は、命の生まれてくる姿が、刻々鮮明になる。この命の姿を描く事ができれば。自然の持つ大きな生動が、莫大なエネルギーが、実に静かに姿を表わすような気がする。今年もまた、その瞬間を描く事ができるのかと思うと、何か高まってくるものがある。絵を描くと言う事は、見えていなければ出来ない。みえると言う事は不可思議な事で、誰でも同じという訳ではない。腱鞘炎になるほど絵を描くとか。筆だこが出来るほど絵を描くと言う人がいる。私は目にたこが出来るほど、見ることだけだ。
こうした研究会も後何回出来るのか。全力を尽くすと言う事が、今回はまだ出来そうだが、この先どうなるかは正直不安がある。絵を描くと、全てを搾り出すことになる。非常に体力がいる。今のやり方ではそう先はない気がしている。どうなるだろうか。

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