史談会
「サポートセンター祭り」が、鴨宮のマロニエであった。ピースカフェーもパネルの展示と、歌を歌っての配布を行った。8人が集まり歌って配ったのですが、駅前と違って、ちょっと勇気が必要だった。駅前だと、別段聞いている人がいるという感じがしないので、賑やかになんかやっていると言う事で済む。マロニエでは、聴いている人の前で歌うという、私としては、何故こんな事になるのか、そんな恐怖を覚える感じだった。まさか、人前で歌を歌うような事が、人生であるとは思わなかった。これが又、大きな声で歌わないと、いよいよ盛り上がらないと言う事もあって、下手は下手なりに、大声は張り上げないとならない。実に困った。照れていると更におかしいので、何とか、歌ったが聞いていた人には、さらに迷惑だっただろう。やはり、人前で歌うのだから、一度は練習が必要だ。練習してもどうにかなる訳じゃないが、努力は要る。
足柄地域には「史談会」という歴史研究会が在る。たまたま、サポセン祭りにはこの会のパネル展示もあった。ピースカフェーのパネルの傍だったので、たまたま話しをさせてもらった。坊所の田んぼの地主さんの湯川さんが、この史談会のメンバーで、地域の歴史に詳しい。それで以前、天子台の縄文の家で、火を囲んで久野の昔を話していただいた。90になる湯川さんが、面白い久野に残された話を、正確に語ってくれた。中心が久野の石にまつわる話だった。石と民話、サイダー工場に湧き水を引いた、石管。検地石の切り出しとその、採掘後の事。石が歴史を語るという面白い話だった。
その中でも、興味深かったのが、久野「総世寺」が古くは和留沢にあったと言う話だった。若いころにその礎石を見つけたのだそうだ。座禅石らしき石も残っていて、この辺りだと確認できたというのだ。所が、史談会で再調査に行ったらどうしても見つらない。どの辺りにあったかはわかっていたのだが、杉が植林されて、すっかり林に埋もれてしまった、というのだ。それを、仲間で再発見しようと行っては見たのだが、今のところ見つかってはいない。
和留沢は戦後開拓の部落で、その以前は人はいなかったというのだ。私にはどうしてもそう思えない。古い時代こそ、水があり、山があり、少しの平地があれば、人は住んでいたはずだ。最乗寺(南足柄)、最(西)明寺等古い寺院が足柄平野を取り巻くようにあり、古い時代は修験道の寺院として、箱根山麓に寺院が点在したと思われる。坊所:ぼうどころ、あるいはぼうしょ。宿坊の名前も久野の地名として残る。和留沢のようなところこそ人が住むところだと、証明したいと言う思いもある。
その湯川さんの話から、その上品なお年寄りは富士フィルム勤務だったと言うお話になった。昭和7年に富士フィルムがこの地を選んだ理由に始まり、富士フィルムの歴史話を聞かせていただけた。これが又、面白い話で公害の問題など、きっと正式な社史には出てこない、興味深い内容が満載だった。どうも技術畑の方で、カドミニュームとフィルムの感光剤の関係など、教えていただけた。それで、きつとこの方なら、瀬戸さんの事をご存知だと思い伺うと、同僚だったと言う事で、課長同士だったこともある。といわれた。「あんなに気持ちの良い、思いやりのある人はいなかった」と話された。会社の仲間から、こんなに評価される人はちょっといないだろうと、聞いていてうれしくなった。