しるべ展

   

しるべ展が近づいてきた。銀座の「月光荘」画室3・5で開催される。会期は6月27日から7月3日までの1週間だ。「しるべ展」は、水彩人の研究会から生まれた。

水彩人の研究会は、年1回無いし、2回。開催されてきた。水彩人の会則で、開催が決まっているものだ。水彩画を研究する機会は少ない。水彩画を、自分の制作の基本にしている作家が少ない為だ。趣味としての水彩画、あるいは油絵や、日本画を制作する作家の下書としての水彩画、の制作。結果、世界でも水彩画は本画としての作品は殆ど無いに等しい。私はまだ、水彩画の領域は未開拓だと考えている。

そこで水彩画をやる者としては、相互研究を徹底的に行うしかない。美術大学ですら、水彩画の講座は無い。自ら絵を学ぶという事を、とことん推し進めていった時に、作品とは何か。この命題にぶつかる。
写生する。心惹かれるところ、あるいは絵になりそうなところを、写生する。ここまでは誰しも行うし、ある意味自然な行為だ。描かれたものの社会的な意味を考えなければ、ここまでで充分な事になる。

絵画の社会的な意味。描かれたものが、何を表現しているか。何のために絵を描くのか。このことに正面から、立ち向かわなくて、絵画の意味など無い。と考えている。描かれたものの意味性の確認。このことを探る時に、初めて絵が絵として自立すると思う。

このことを自覚する機会が、描いたものを、作品として発表することだ。発表する以上、作品は自分からはなれ、客観的なものとしての存在になる。作者も観衆も等距離になる。空の色が青い事は、青かったからではなく、何故青くしなくてはならないかという。作者の意図として問われる事になる。

作品は社会のためにある。絵が自己完結しない。社会に対し自分の表現主張として、自分の哲学を表明した物だ。大上段であるが、この事を忘れて、作品を描く意味は無い。感じがいいとか、上手です。というところから、へたではあるが、伝わるものがある。作者の意思があるもの、作者が感じられる作品。作者の哲学が、言い換えれば、哲学が詩として、絵画に成ってたち現れる作品。

こうした作品の登場を期待して、しるべ展に参加する。

自己表現としての作品に直面するために、水彩人展もある。又、しるべ展も生まれた。しるべ展は3回目の開催になる。過去2回は水彩人が主催し、しるべの人が参加するという形だったが、主体的なかかわりこそ、絵画する意味が自覚できるはず。ということで、今回から、しるべが主体的に作り上げた展覧会として、作品発表することに成った。

水彩人からも、6名が参加する。38名参加の展覧会になる。私も、今制作している。それなりになってきているような気がしているが、どうだろうか。

 - 水彩画