和田義彦氏の盗作
和田義彦氏の盗作問題が、いわゆる世間をにぎわせている。
以下は今盗作騒ぎを起こしている、芸術選奨文部科学大臣賞受賞の理由です。
「和田義彦氏は早くに西欧古典技法を習得、氏の高度な油画技術と正確な素描力と重厚な着彩とは、既に定評がある。その氏が平成17年に行った「ドラマとポエジーの画家 和田義彦展」(三重県立美術館、4月~6月ほか)は、初期から現在まで46年の作歴を示し、骨太な表現と変化に富む内容は圧巻であった。氏の作画世界は、群像等で劇的な情景を設定しているが、示唆するものは社会の不条理や人々の不安、孤独など内面の実存である。常に問題意識が現代の核心に触れていて、その時事性もまた評価できる。」
この人を選んだ審査員は7名だそうだ。今恥ずかしい思いをしているだろう。気付かなかったのは止むえないにしても、こ人の絵を、こんなにも持ち上げてしまった事はさすがに、美術に係わる者として、残念に違いない。再審査には7命中4名が欠席したそうだ。無理も無いことだ。
国画会は退会勧告をした。除名という事のようだ。創立した梅原隆三郎が泣いているだろう。この絵が盗作である事は、絵を知らない人であれば、あるほど納得が行くだろう。実はこれでも、専門家の間では、中々難しいところなのだ。これが盗作ならあれはどうなの、と言う事にならないか。
イタリアのスギ氏という人の作品を、今回の事ではじめて見る機会を得た。これが、日本の団体展の特徴が垣間見れて、興味深い事だった。つまり、スギ氏の作品はマチュエールがあっさり、ねっとりしていて、ある意味不気味だ。イタリア的と言えるのだろう。一方和田氏は盛り上げて、重厚さを出している。団体展で受けるやり方だ。日本独特に発達した公募展風の、貧乏たらしいといわれる、タイプの物だ。国画会に両者が並べば、和田氏に軍配が上がるだろう。
この人が中心メンバーの一人である国画会という団体も、また恥ずかしい思いをしている。愛知芸大はどうなるのだろう。この人は教授だったはずだ。こういう描き方を指導していたのだろうか。愛知芸大で同僚で、同じ国画会の会員である島田 章三氏は今どんな思いだろう。絵を大学で指導すると言う、限界を感じざる得ない。
絵を描くということが、和田氏にとってこういうものであるなら、つまり、スギ氏の作品に触発されて、それを写して自分のマチュエールにしてゆく事に、喜びがあるなら、それでいいのではないか。問題はそういう行為を、芸術的と呼ぶかどうかだろう。それは選んだ人の問題で、選んだ人達は今更、それを撤回するというのは、どんなものだろう。国画会では除名だそうだが、除名の理由は盗作なのだろうか。今まで、持ち上げてきた、自分達は恥ずかしくないのだろうか。
仲間として、こうした描き方を良くないとするなら、今まで同じ団体展で、同じ名古屋の大学の教官だった、島田氏は絵を見抜く能力が、又人間を見抜く能力がなかった、という事なのか。
私には、今の団体展の絵の殆どが、和田氏の制作手法と、大同小異だと思っている。元絵があろうがあるまいが、根本は変わらない。受けそうな絵のやり方を模倣をしている絵が、大半だ。だから、こういう描き方の和田氏の作品が持つ、独特の不自然さが、目立たないのだ。さすがに、スギ氏の構図そのままということで、今回は目立ってしまったが、もっと要領よくやっている人ばかりだ。それが評価を得てゆくやり方だと思う。
絵を描くと言う事は、自分の内部にある何かを表現することだ。自分が見ている何ものかを、画面化することで、より深め、客観的なものとして、存在させる。その思想が、哲学と言ってもいいものが、人に伝わるか。ここだと思う。
この行為から、何かを他者が感じるかは、これまたそれぞれの問題だ。評価と言うものが当てにならないのは、当たり前で、そんな事と制作は何の関係も無い。