自殺者3万人の国
自殺者3万人の国、わが日本のことだ。これが5年も続いている。4000人に一人が、毎年自殺する数字だ。小田原市の人口で言えば、毎年、50人が自殺している事になる。久野では毎年3人が死んでいる事になる。これは普通なことでは無い。この状態は5年間続き一向に減る様子が無い。
このことは、少子化の問題とも関連しているのだろう。生き難い社会。普通に暮らしてゆく事が、困難になってきている社会。無神経になって暮らさざる得ない社会。社会の至る所に、追い込まれている人がいる。社会が病んでいる現われとして、信じがたいような、犯罪も後を絶たない。
原因を、探らなければならないという事もあるだろうが。それよりも、それぞれが、心を開ける場所、仲間を探す事が緊急の課題だと思う。
私が暮らしている地域は、人口の移動の殆ど無い、江戸時代から、この地に暮らしている家の方が、大半である小田原の外れの集落である。いかにも地域社会が残っているはずの地域だ。殆どの家が、なんらかの姻戚関係が存在し、暮らしの隅々まで知っている。このように私は考えていた。
所が、よそから来て、8年目の私の方が、各家の状況に詳しいのだ。傍目には、祭りや、葬儀には、総出で活動をしている。交流の深い地域に見えるだろう。しかし、そうした活動が形骸化している。形だけにならざる得なかった。私も地区公民館長をやった。今度の自治会長も、他所から来た方だ、来年もそうだ。一人の人は2度目の役割という事になる。他所から来た人は70家族のうち4家族しかいないのだが、定年退職者のため、そうした役割が当てられるのだ。
昔からの地域の人には、役割を引き受ける余裕がないという事だとおもう。役は大変名誉な事で、私は地域の方から言われた事は、全て受け入れるという姿勢でいたので、来て3年目に公民館の仕事を頼まれた時には、不可能という忙しさの中、お受けした。そうしたら、近所の方から、3回ぐらいは断ってから引き受けるものだ、と注意をされた。その名誉な事を、誰もやりようが無いのが実情なのだ。
もう私以外で、家で農業をしている人は、お年寄りか、女性だ。それも、10人ぐらいで、80を越えている方がほとんどだ。山仕事や、農業が生業であった時なら、地域社会は生きていたのだろう。この地区でもお年寄りの一人暮らしは不可能になっている。老人ホームに順番を待って、入所しているのが実情だ。
地理的な意味での地域社会が失われている。これを復活させるという事は、不可能だろう。それなら、どうやって自分の所属するグループをもてるのか。これが今の緊急の課題だ。男性老人の自殺が一番多いいというのは、会社社会というグループから外れたときの、所属する場の無いことが、反映しているのではないか。
人間はグループの中でしか生きられないのだと思う。私は、13年間山の中の1軒屋に暮らしていた。自給自足的に暮らしていたので、人に会わずに1週間ぐらい過ごすことは稀でなかった。山から下りないで長い事いることもあった。小田原まで出てくることが、町に行く、という特別な事だった。しかし、外部の様々なグループには所属していた。この意識は自分の安定を保つためには、大きな要素だったと思う。
誰もが、気軽に所属できる、コミュニティーを育てる必要が迫っている。先日、野宿生活者の話を伺った。活動を続けてきた方の「出来る事は、話を聞かせてもらうことだ。」この言葉は何度も思い出している。