樹木と石
東洋では石というものに、全存在を見る思想がある。ヨーロッパにおける人間がそれに当る。
絵画を学ぼうとする時に、中国では一つの石を描き切れば全宇宙が描けると考え、石を描く絵画の学習法が出来上がる。石の凹みや、出っ張りを、山と見、海と見る。石を見立てる事で、ある意味自分の存在する、場を、対象化しようということなのだろう。
ヨーロッパでは、人間そのものが研究対象になる。人体を直接的に描く事で、全てを学ぼうと言う事だろう。これは、絵画に限らず、どの学問も人間学である。ルネッサンス、人間復古、以来ヒューマニズムというのが、特徴だろう。ダビンチが解剖まで行って、人間を描こうとする背景に、人間主義がる。
今の日本はヨーロッパ方式だ。少し前のヨーロッパ方式を学んでいる。今でも美術学校の入学試験は石膏デッサンなのだろうか。あんな物が、何かの役に立つと思っているのは、いまや世界でも日本人だけだろう。石が置いてあって、さあー描け。なんて試験じゃ、判断する能力がないだろう。絵描きと自称する人達が、いかに保守的で、進取の精神に乏しいかの好例だろう。
東洋では、これが石だと言う。西田哲学や、作庭記などを読むと、石と言うものが思想の根源にあることがよく分かる。
宝石などではなく、ごく普通の漬物石のようなものの所が面白い。 夢窓疎石は「禅の公案の形象化」という前代未聞の原理に従って、作庭を行った、と言う。悟りを視覚化しようと言うのだ。ここでは石がその中心にある。多分、悟りの感覚が、庭の空間の中に近い物を捉えたのだろう。
石の移ろわない所に、生きた変化する物より絶対性を置くには相応しいと考えたのだろう。苔むした凝った石ではなかったと思う。
石と言う、味も素っ気もないところが、すごい所だが、今の流行は石より樹木だろう。ネーティブ・アメリカンは、樹木を全ての存在の根源と感じるようだ。これは、当然イブのりんごの神話にあるように、ヨーロッパの神話時代も同様の母なる樹木信仰はある。日本でもご神木に見られるように、同じである。でも、インディアンじゃなく、ネーティブ・アメリカンの思想と言うと、流行で新しい装いを持つ。この感覚は苦手だが、古い者と思われるのが厭で、話はあわせているのが情けない所だ。
巨木信仰と言うのは、誰でも実感できる所だ。木の人と比べられない巨大な、生命の実感が、人間を圧倒している。樹林気功は樹木と一体化する気功だ。今田求仁生さん(先住民の杜基金・代表)が、山北で会を開いた時に参加したが、樹木信仰の一種だと思った。木の前で寝ていて、末期がんから生還したと言うのだ。この珍しい現象をどのように捉えるかで、科学でもあり、信仰でもあり、哲学でもある。
自分の樹と言うものがあるそうだ。思わず、抱きつきたくなるような樹の事らしい。子供の頃はきのぼりが遊びで、樹上の家は夢の一つだったが。今の子供は木にまとわりついて遊ぶようなことはあるのだろうか。あまり見ないようだが。
私の好きなのはケヤキの木だ。これは子供の頃から少しも変わらない。欠片でもケヤキは好きだ。かけらをいつも持っている信仰もある。いや、これは安心がある。何かの時に触る事で、落ち着く事ができる。お守りだろう。
ただ、ただ、意味も無く木を削る会、をミホさんがやった事がある。10種ぐらい木切れと、小刀が用意され、田んぼのあと地に筵を引いて、静かに木を削るだけ。好きな木を取るようにと言うので、一つの木切れを選ぶとそれは屋久杉だと言う。まさか杉とは、思えない感触で驚く。木も年齢で変貌する。1000年生きたものを削るという暴挙に、浸りながら、無為に削っていると、しゃじらしきものになった。それが厭で、慌てて、すくうあたりに穴を空けた。