水彩人研究会
水彩人の研究会が、5月22日23日24日と3日間、ある。
志賀高原の木戸池温泉ホテルで開催する。現在のところ、45名の参加である。こうした研究会を、水彩連盟での企画に始まり、25年ほど運営してきた。都内で行った場合、100名を超える場合もあったが、泊り込みで、写生地で行う場合、45名は平均的なものだ。年によっては、春、夏、秋と3回やった事もある。
木戸池での開催は多分10回は越えていると思う。木戸池は写生地として、大変優れている。秋の紅葉シーズンが多かったと思うが、春の新緑が一番よい季節だ。木々の葉が落ちて、見通しが利くので、他の季節には見えない場所が良く見通せる。勿論、春の色、芽吹きの色のすばらしさ、微妙さ、多様さ、これは例えようもないものだ。5月の連休まではスキー客でにぎわうそうで、5月後半でも、まだ残雪もある。風景を描くには、中々興味深い場所だ。
木戸池に行くと、必ず描く場所が、2箇所ある。田の原湿原と。石の湯の俯瞰だ。
田の原の面白いのは、構成の妙だ。自分の視線の高さを、自由に変えられると言う面白さ。標高1610m。佐久間象山がこの湿原で稲作 の研究をしたことが田の原湿原の由来。私としては、ここに先ず、惹かれてしまった。ここが、普通の場所ではないと思って描いていたら、佐久間象山の事実が出てきた。長野では、1000メートルを越える、田んぼがかなりある。本当に、1610の標高で、稲作が出来たのかどうか。
人の思いがこもった所に、何故か引き寄せられる。絵を描く目で、見る。と言う事は、視覚的にだけ見ているわけではない。分かり易く考えれば、写真のようにはまったく見ていない。見たいものだけを見ているし。見えていないものも見ている。佐久間象山の思いは見ているが、事物として、意味性のある何かを見ているわけではない。言葉にするのは困難さはあるが、この場にある自然の命、私の生命と呼応する何かを、見抜こうとして、見ている。
そうして見ている物を、画面の中に作り出すのが絵だと思う。再現しようとしても、視覚的に見えているわけではないのだから、創作する事になる。事物があるとしてもあるようなだけでそれは、色と、形に還元された、画面上での、絵の具に過ぎない。ここに、画面上に構成される、客観的な要素で、極めて観念的な、思想と言うような物を、表そうとする。
確実な真実として、見えていなければ、画面化は出来ないし、見えているものを再現しているわけでもない。
石の湯の俯瞰は廃園の眺めだ。作られた物が、崩壊してゆく、自然の中に戻ってゆく姿だ。人工物は風景を幾何学的に、区切る。人が掘って作った人工の水路は、いかに自然らしく見せたとしても、どこかおかしな物だ。これを、自然の力が、崩壊する事でなじませてゆく。そこに現れてくる、悲しみのような物が、実は自然の力の絶対性と、人間の無力さであるように感じられ、描きたい思いに引き込まれる。
いつか、日本全国で描いてきた場所をメモしておこうと思う。そうは多くないのだが、他の場所には変えがたいところだ。
志賀高原のような山深い場所が、古く、鎌倉時代といわれているが、どうして、開かれたのだろうか。温泉があるということがある。百姓で暮らしてみると、湯治場は不可欠だ。特に、古い時代では自然治癒として、温泉の意味は今より大きかったのだろう。温泉と言うと、お風呂と言う事になるが、これが風景を描いていると、至る所から力が、湧き出ている場所と言う事が分かる。地面に力があるというのだろうか。
ムーブマンがあるといったほうが、絵描きっぽくて、変な宗教家と間違えられないだろう。例えば、木々の樹相が温泉熱で、違っていたりする。草の様子が、その周辺だけがおかしかったりする。風景ばかり描いていると、そうした微妙な変化に敏感に成るのだろう。山の形も、当然地下のマグマの影響で他とは違う。だから、私が描く山は、火山ばかりだ。火山のムーブマンがすごいのは当然の事だ。