あしがら農の会 続き

   

折角なので、この際残っていた耕作日誌に基づき年代を整理する。
84年山北に移住先を見つけるため、始めてくる。
86年山北に土地を購入し、週末には来る様になる。
88年山北に移住、このあと5年かけて自給自足を達成。
91年大仁農場を初めて見学する。その後度々伺う。
92年第2東名高速道路、県境の最終処分場問題勃発、
   MOA産地支部に加えてもらう。
93年あしがら農の会の元になる「山北有機農業研究会」を設立。
   東海大学の佐々木先生の指導で、NO2 の測定活動を始める。
94年酒匂川グリンフォーラムの活動に加わる。正式に農家になる。
95年成田自然農法生産組合を見学。CLCAの活動に参加する。
96年塩沢で田んぼを行う事になる。
97年坊所で田んぼを行う事になる。
98年小田原に転居する。

以上の年表を見ながら思い出してみると、農地を貸していただいた、山北のお隣さんであった、川口さんとの出会いが、大きなきっかけになっている。川口さんから大仁農場の話を聞き、大仁農場に金原さんを尋ねる。このことで、私の養鶏も随分整理される事になる。川口さんには卵の販売で、お世話になり、この地域の自然農法をされる沢山の方を紹介いただく。

このころMOA自然農法では1市町村に1支部を作ると言う方針が在ったようです。そこで川口さんから、山北有機農業研究会の話が出る。私は、MOAと言う宗教教団には警戒心もあるし、今後の活動の展開には、障害になると考えていたので、MOAの名前を一切出さないで、有機農業研究会と言う形なら、協力させてもらうと言う事で、山北の有機農業をされている方を10名ほどを尋ね、組織を設立することになる。

瀬戸徳雄さん(町会議員)、鈴木英夫さん(農業委員)、杉本さん(茶・自然農法)、くだかけ生活舎、茂木さん(自然養鶏)、川口さんほかMOAの方4名。それと笹村で活動を開始する。初めはぼかし肥作り、その後食の集会、きのこのホダギづくり。朝市の協力。お茶や卵の販売。有機農家の見学会。等今の活動の原点になるような活動を始める。【地場・旬・自給】は当時私が考え、掲げる事にする。

しかし、実際の耕作を共同で始めない事には、活動がどうも本格化しないと言う事に成り、茂木さんがやられていた畑が、田んぼに転換できると言う事なので、みんなで田んぼをやる事になる。私は山の上で田んぼをやっていたので、本格的に田んぼをやれるのは望むところなので、やってみようと言う事になる。
所が、その田んぼでいよいよ春起こしをやろうとした頃、水利組合から自然農法でやるのは困る。と、突然ストップがかかる。当初乗り気だった茂木さんも何故か、かたくなに拒否するようになる。わけが解らないまま中止になる。

この頃94年、山北の奥の塩沢のさらに奥で、お年寄りから話を聞く会を、グリンフォーラムで行う事になる。この集まりで行った、テントを張った場所が、江戸時代に開かれた田んぼのあとだった。何とかここの田んぼを再開できないかと言う事で、夢を持つことになる。

その後96年になって、CLCAの和田さんにこの件で相談する。和田さんの親族が、谷峨にいると言う事で、紹介いただき、この田んぼがやれる事になる。その後私は3年耕作する。活動としては6年間続く。

このCLCAの事務局をされていた、加藤憲一さんとも知り合い。後に彼がやっていた、風の谷?とかいう活動と、合併する形で、農の会に名称が何となく呼び習わされるようになる。山北と限定している訳にも行かなくなったので、どう呼ぶのがいいか面倒なので、山田純さんが言い始めた。所があとで、農の会という団体があることが解り、あしがらを加える事になる。

94,95年頃のグリンフォーラムでの活動は、反対運動。第2東名は進み、最終処分場は休止状態。この中で、反対していても何も生み出せない。何か生み出す環境運動に転換すべきと言う考えが煮詰まってくる。事務局の山田さんは林業の再生を言われる。私は、農業の再生こそ重要と言う事で、山北有機農業研究会の充実を計る事になる。山田さんが、様々なこの地域の農業者を紹介してくれて、尋ねてみることが続く。

96年には、MOAの産地支部の活動で見学に見えた、石綿さんから学ぶことが多く。なんでも相談に伺うようになる。その事から、96年には坊所で、湯川さんから田んぼを借りる事ができる。この田んぼの活動に、多くの仲間が集まるようになり、今の形が出来上がってくる。やはり共に田んぼを行う中で、考え方が生まれてきて、今の形態ができてきたと思います

以上が、農の会の立ち上がり時期の、概略である。

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