太陽の塔が重要文化財とは

   

大阪府は昭和の万博の象徴として、太陽の塔を重文指定に申請をした。たいていの場合は申請すれば、決まりのようなものだから、たぶん重文になるのだろう。私には強い違和感がある。太陽の塔が縄文のエネルギーを現わしているなど到底思えないからだ。円谷プロの怪獣の類いと同レベルのものだろう。芸術作品とは到底考えられない。

岡本太郎氏については、高い評価をしているし、美術史の見方について決定的に影響を受けた。芸術は爆発だと冗談めかして叫んでいたが、ああした自己主張で本質が誤解されていると思う。岡本太郎氏は芸術評論家であり、美術史家である。創作者ではないと考えた方が良い。

作品を見て何かを感じたことはない。つまらない平凡な作品だとしか思えない。何故顔かもと太郎氏の作品を若い人が評価をすることが結構ある。つまり、アニメーション作品と連動している気がする。そういう意味では先駆者ではあるかもしれない。芸術ではないものを、芸術だと言い切った。

岡本太郎氏の芸術論からすれば、自分の作品が芸術だとは到底思えなかったはずだ。縄文の土偶の発する芸術特有のエネルギーなど、岡本作品には全くない。太陽の塔には全くない。そのくらいのことは分かっている人だった。だから太陽の塔が残されて、岡本太郎はこういう人だとなることで、岡本太郎を読み違えることになるだろう。

ああしたアイデア作品は素人作品にはいくらでもある。岡本氏の絵画は要するにペンキ絵なのだ。看板絵画と変わらない技術のものだ。意図ばかりが先行していて、技術がまるで伴っていない。意図が深ければ深いほどその意図にふさわしい表現方法を創作しなければならない。それが一級の芸術という物である。

表現としての技術レベルが低すぎる。努力のない人だったのだろう。たゆまぬ修練というような、技術的な努力をしたことがないのだろう。風呂屋の看板と似たような描き方である。芸術は爆発だと叫びながら、画面に近づくとやけに慎重に塗っている。そこから成長しなかった。色感も良くない人だ。変色を来したのかもしれない。溶き油が悪かったかもしれない。石油で溶いたような色をしている。

むしろ若い人にはそういう、看板のような描き方に親近感が生まれるのかもしれない。日本の文化レベルが急速に低下して、絹谷幸二氏や奥谷博氏が文化勲章である。つまり二千年代の日本の最高の作品とされているのだ。申し訳のない、失礼なことではあるが、芸術作品にはどうしても見えない。岡本太郎氏ならそう言ったはずだ。

縄文の土偶を制作した人の技術レベルは、驚異的に高いものである。縄文人の誰もが作れたのではなく、専門の制作者がいたに違いない。土偶には人間の祈りがこもっている。その意味で縄文の土偶は国宝に値する。まごうことなく日本の文化の宝の一つである。

岡本氏は万博のテーマ展示プロデューサーを務めていたが、調和とは程遠い人類の現状を捉え、アンチテーゼとして「太陽の塔」を対峙(たいじ)させたとされる。「テーマへの痛烈な批判や、人間が『機械の奴隷』になっていることに警鐘を鳴らす意味を込めていた」と指摘する。

そもそもこの岡本氏のこうした姿勢がおかしい。「人類の進歩と調和」をテーマにした万博に責任者として加わりながら、そのテーマ自体を批判する、アンチテーゼとしての太陽の塔を建てたとしている。なんともおかしいだろう。大阪万博には強い反万博の活動もあったのだ。むしろそちらに加わるべき人だったはずだ。

体制側の中で、何がアンチテーゼか。と金沢大学の学生だった当時の私は考えた。万博など見向きもしなかった。万博に行く奴をあざ笑っていた。岡本太郎の縄文文化論を何度も読んでいたので、反体制派としては裏切り者に見えていた。太陽の塔の茶番にはあきれ果てていた。芸術の力はあんな空洞のモニュメントではない。

むしろ、岡本太郎氏の中にある2重性を考えていた。何故これほど聡明で論理的な書物を書く人間が、あんな陳腐な絵を描き、太陽の塔などと言うグロテスクなものを作ったのか。あんなものは芸術は爆発だと、ダイナマイトで爆破して終わりにすべきだった。ちゃちな像だったのだ。今残っている太陽の塔の姿は岡本太郎の恥の姿である。

あれで岡本太郎氏が評価されるとすれば、あれを重文にした2025年の日本の文化レベルが後世の人に笑われることになるだけである。実際それぐらいに衰えているのが日本の現代文化であろう。世界の文化が商品経済の中で、衰退をしている。アメリカの歴史の浅い文化がお金の力で、世界の文化を衰退に巻き込んだ。

琵琶湖疏水も今夏重文指定されるらしい。明治23年の竣工。水道、水力発電、舟運、かんがい、庭園、防火用水等、総合的な役割を通じて、明治維新において衰退の危機に瀕した京都のまちの再生と発展を支えた都市基盤施設。と説明があるが、何が文化財かとこれにも驚いた。

今般の答申では、「西洋技術の習得過程にあった明治中期において、当時の土木技術の粋を集めて築かれ、世界的に高い評価を得た、類い希なる構造物であり、明治日本における都市基盤施設の金字塔である」と高い評価を受けた。と説明が出ていたが、私には到底そう思えない。

「重要文化財」として指定される施設は、大津市から京都市にかけて、24か所の施設で、そのうち、5か所が「国宝」として指定されるらしい。国宝をこの程度の物で指定すれば、過去の指定された国宝まで疑問視されることになる。驚くべき国宝のレベル低下である。日本の国宝も地に落ちた。

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