テレワークでも東京集中は続く

奥に見える山が石垣島の於茂登岳である。沖縄県で一番高い山である。手前の水をたたえた田んぼが、みんなでやっている田んぼである。こんなに美しい田んぼでイネ作りができると言うことがすばらしい。こんな場所で暮らして、どんな仕事でも可能な世の中になることが理想だろう。
政府はテレワーク地方創生を表明している。しかし、全く効果を上げていない。石垣島で暮らして色々の仕事が可能になる時代は来るのだろうか。世の中を見ると、成果を上げるどころか、地方の人口減少が一段と進むだけにみえる。現在人口増加は沖縄県と東京都ぐらいだろう。地方でも都市は増加して中山間地では集落が消滅してきている。
理由は簡単なことだ、人は都市に集まるものだからだ。光に集まる蛾のようなものだ。都市にある混沌は若者を誘引する。ネオンサインの無いところでは若者はいなくなる。こう言ったのは田中角栄氏で、日本中にネオン街を作ろうとして、途中で折れた。
高所得が人を集める。都会にだけ、高所得を得られる仕事がある。絵を描いていても東京にいなければ、商業画家にはなれない。大家になれば、フランスに居ても同じであるが。フランスでは売れないが日本では売れるという大家と言う人が多い。
IT産業などどこにあっても同じようなものだが、シリコンバレーと言うような所に集中しているらしい。アメリカのどこからしいとしか知らないが、やはり谷間のような所なのだろうか。何故そんなところに集まったのだろうか。資本はより効率性を求めるから、集中しているところがより集中する。
今度富士五湖の西湖のそばの閉鎖されたホテルを買収して、会社ごと移転した企業があると言う。絵を描きに行くと通るときがあるので、どんな場所かはよく知っている。65年前のその場所もよく知っている。生まれた向昌院は精進湖のほとりの大杉のある場所から、境川に移転したという記録がある。
その場所まで峠を越えて歩いて行ったことがある。途中で芦安というところでおじさんが教師をしていて、一晩泊まった。蛇抜け石という場所があり、土砂災害の場所であった。土砂災害に遭い、移転したと言うことだろうか。精進湖は山深い場所だった。そこから西湖をとおり、河口湖まで又歩いた。そこからバスに乗って、御坂峠を越えて甲府に戻った。
その山深いところにサティアンとか言うとんでもないものが作られた。すごい場所を見付けたものだと思った。オウム真理教団である。今はどこだったのかというほど痕跡も無い。とんでもないことで有名になってしまったものだ。地域の人には申し訳ない話だが、それでつい思い出してしまう。
阪神淡路大震災の年である。1995年地下鉄サリン事件。武装蜂起のつもりだったのだろう。東京では暮らせないと思い開墾に入ったのが、1986年。山北の開墾地から、大島の三原山噴火が見えた。時代が変わろうとしていた様子を、社会から切り離された形で見ていた。
その社会の変わり方は最後のあがきのようにみえた。一種最後のエネルギーが絞り出されるようだった。1970年何でも可能なように見えた時代がある。戦後民主主義の可能性が消えて行く時代。自分の道を探した20年が、開墾生活になった。
山北の山の中の暮らしが、警察から監視されていた。自分たちに理解できないものは、危険分子として押さえつけてしまえという権力。自給自足で生きるというようなことは、権力にとっては望ましいことではないと言うことを身に染みて知らされた。
紐付きのテレワークならば、良いのだろうか。飼い慣らされたポチならば、首輪をつけ、鎖を付けて繋がれている。勝手にひとりで生きている奴は何をするか分からない不穏分子と見られていた。排除の論理という言葉を思い出す。
人口減少が東京にも及ぶようになれば、日本は急激な衰退局面に入ったと言うことなのだろう。人口が1億を切る当たりになれば、東京も人口減少になるのかもしれない。生きている内にそういう日が来て、確認できるかもしれない。
今後コロナが一段落したとしても、テレワークはある程度は進むだろう。企業にはその有利さもあるからだ。通勤手当が削減でき、オフィース面積も節約できる。社員に家でやって貰ら得るならば、社員も会社も良いという仕事はどこの会社にも一定はあるのだろう。それは外注でも済むような仕事なのかもしれない。
しかし、経済競争に勝つためにはテレワークだけでは難しい。新製品の開発が外注では難しいだろう。全く見当もつかない世界であるが、新しい製品はチームでやらなければ出来ない気がする。しかも寝食を共にするような仲間の中から生まれると言うこともあるのだろう。人間はひとりになる事で発揮されるものもあるが。大抵のことは、仲間との切磋琢磨で出てくる発想から出てくる。
巨大企業が、可能性のあるベンチャー企業を喰いながら成長するようなイメージか。次の可能性は天才から生まれてくるのか、天才集団から生まれるのか、そうした可能性を巨大企業は自分の中に育てられるものなのだろうか。
田んぼだって、ひとりで考えているより、みんなで考えた法が良い考えが浮ぶものだ。だから、農の会のイネ作りが、近隣農家よりも収量が増えたのだ。有機農業は一番優れた農法である。手間がかかるとしても収量が多くて当然である。
しかし、それが普通の有機農家には出来ない。有機農業の農家はひとりでやる人が多いからだ。ひとりの考えでは有機農業の総合性になかなか到達できない。だから一般には有機農業は生産性は20%低いものとされている。
江戸時代であれば、藩という1地域の集団性があり、部落という実践組織があった。そこで新技術が集団で開発されていた。そうした過去の有機農業技術は前近代的なものとして、捨て去られてしまった。
今の時代に始めようとすれば、0からやらなければならない。その時必要なことはみんなで知恵を出し合うことだと思う。ここがテレワークでは難しいだろう。実際に田んぼを診ながら話し合わなければ、どうすれば良いかは分からないことがよくある。いわば現場主義の仕事も多いと想像する。仕事の仕分けが出来るかどうかなのだろう。
とりとめも無いことだが、石垣島で新しい田んぼに挑戦しながら、そういうことを考えている。