老人にも大切な役割がある。

石垣島田んぼの苗代。播種4日目の今日苗は発芽がそろう予定。小田原でやっていた方法のままで、石垣島でやってみて、上手くゆきそうである。ここまでは上々の滑り出しである。後は四週間で5葉期の苗に成長するかどうか。8月1日が田植え予定である。
70歳を過ぎたら、いくらかでも次の世代の役に立たなければならない。とかく若者は忙しい。年寄には時間だけはある。この時間のいくらかを次の世代の役に立てる事ができれば、有り難いことではないかと思う。役に立てば、友達にも成れるのではないか。それで十分な人生ということだ。
老人の孤独は何でも無い。などと粋がっている老人がいる。哀れなものである。歳をとったらひとりでも多くの友人を見つけることが望ましいに違いない。どんなことでも良いから人のために生きる努力をしようと言いたい。残り少なくなった人生こそ自分のためだけで無く、周りの人のために生きた方が気持ちが良いだろう。そうすれば知り合いも、友人も出来るかもしれない。
小田原の久野には、毎日道路際に落ちているごみを拾う人がいた。それを日課として続けていた。現役の頃、環境センターで働いていた人だと伺った。偉人だと思う。お会いしたら心の中で手を合わせていた。後光が差しているように見えたのだ。オーラが見えたのだ。
小田原市がその方を表彰したいと申し出たら、もしそういうことをするなら、自分はもうごみは拾わないと言われたという。スーパーボランティアである。こころ豊かな老人の暮らしであったと思う。情けは人のためならず。
老人はどうしたって社会の負担である。医療も福祉も団塊の世代が死に絶えるまでは、当分は困難を極める。労働人口が年々減少して行く。少しでも健康であって、迷惑をかけないことが団塊老人の役目だ。コロナでは無いが、出来れば医療のお世話にならないで死ぬことが目標である。
コロナでは医療崩壊の主役は、まさに老人であった。若い人にしてみれば、あまり役にも立たない老人なのに迷惑な事だと、思ったかもしれない。それでも若者は自粛しろと言われている。コロナ生活苦にあれば老人を憎んでも仕方がない。本来老人をワクチンを打つまで外出禁止にすれば良かったのだ。
それでは老人はどこで役立てば良いのか。やはり知識であろう。一緒に肉体的に働けば、どうしても足手まといになりがちである。惚けが来ない限り、知識では若い人に勝っているかもしれない。生涯追求した専門分野があればのことである。
専門分野の第一人者になるよう生きることだ。このことならあの人に聞いたならば良いと言うような老人になれば良い。知識のある人になれば、若い人に役立てる。江戸時代の村の長老はそういう人であったはずだ。暮らすためには老人の知恵が役に立つ時代がまともな時代である。
そして聞き上手になることだ。若者の能力を伸ばすような気持ちで接する事が重要だと思っている。自分の知識を押しつけるので無く、自分が知識を積み重ねた経験を、若者自身が成長するヒントになれば良いと言うことだと思う。一緒に考えることができる老人になる。そう出来れば老害など言われない。
友人のお父さんに商売の神様という人がいた。渋谷で大きな店舗を展開して成功させていた。共同してやっていた会社が息子さんの代になったときにあっさりと若く引退してしまい、次世代にすべてを譲り、房総の勝浦に隠遁してしまった。
すると、新しく商売を始めようという人が、勝浦へ通うようになった。その人に相談し、商売を始めると成功するからである。隠遁しながらも勝浦でも、結局はあれこれ相談を受け、活躍をしていた。充実した隠居生活だったのでは無かろうか。
南足柄市の畏友に数学の専門家の方がおられる。この方は若い人達に数学を教えている。大学レベルの数学であれば、教えることができると言われていた。実に立派な方で、地域で尊敬を集めている。若い時代に専門を極めることこそが大切なのだ。
孤独でかまわないなどと嘯いている老人は、実は役に立つ専門性を持っていない場合が多い。引退した政治家。引退したタレント。老人の絵描き。考えてみないでも、若い人の役立つことはほとんど無い。口を出されればかえって迷惑なだけだろう。
昔の村社会では、暮らしの知恵の宝庫のような老人がいた。例えば牛を飼うなら、あの人に聞けば色々助かる人。家を建てるなら、あの人に教われば良い。もちろん農作業で種を蒔く前には一言相談にのって貰う人がいた。昔は日々の暮らしが冒険に満ちていたのだ。
30年前に山北の山中で開墾生活を始めた。そして自然養鶏を始めた。ところが、自然養鶏の技術は完全に途絶えていた。全国にこの方はと思われる人を探し尋ね歩いたのだが、ついに江戸時代の鶏飼育の事を伝え聞いて記憶されている方はいなかった。
何をエサにしていたのかさえ、誰も知らなかった。技術というものは、新しい技術に押し切られ、途絶えてしまうものなのだ。明治以降の富国強兵の時代は大事な伝統農業の技術を捨ててしまう歴史だったのだ。しかも古くさい、役に立たない技術として、大規模養鶏に淘汰されたのだ。
しかし、本当の意味で未来に繋がる技術は江戸時代の地域に根ざした農業の中にこそある。自然養鶏でも、自給稲作農業でも、これからの時代もういちど見直す必要が出てきている。その時には老人の出番では無いだろうか。
ただ、指導的な自分の経験を押しつける老人ではだめだ。偉そうにしたがる農業者は多い。若い人のやっていることが、頼りなくて見ておれない。若い人は優しい人が増えているので、傷つけないように付き合ってはくれるが、人間として学んでいるわけでは無い。
若い人と同じ地平にたって、一緒に学んで行く老人で無ければだめだ。知識を教えるのでは無く、考え方を伝えなければだめだ。若い人が自分で考え、発見する力を育てなければならない。探求する気持ちを刺激できれば、老人の役割は十分である。間違っても知識を押しつける老人ではだめだ。これは自戒である。
おもしろい老人になりたい。何事にも面白がる老人になりたい。新しいことに興味を持ち、やったことの無いことに挑戦できる老人である。ついつい笑われる老人が最高である。怖い老人はだめだ。偉そうな老人もだめだ。
テレビではお笑いタレントが活躍している。せめてテレビを見るときぐらい笑いたいからでは無いだろうか。これからさらに辛い時代を生きて行かなければならない。若い人のこれからの時代は楽観できない厳しさが予測される。せめて笑えることが必要だろう。