もったいない精神を断捨離してはならない。

   

 
 子供のころの暮らしと今の暮らしで一番変わったのは、もったいないから取っておくという価値観が、捨てることが暮らしをよくするという断捨離の価値観である。物を捨てるなどという事は、ほとんどなかった。置いておく場所だけはいくらでもあったという事がある。

 子供のころは戦後だったこともあってまだ物資不足と言われていたこともあったかもしれない。特に山梨県の山の中での暮らしでは物は捨てないことの方が当たり前のことだった。そもそもごみの収集などという物はなかったのだ。

 缶詰の空き缶は貴重品で捨てなかった。缶の明けた切り口を金づちできれいに叩いて、容器にしていた。実際に様々な場面で使われていた。そのなかにくぎが入れて並べてあった。その釘だって抜いたものをきれいにまっすぐにして、捨てるなどという事はなかった。

 空き瓶はもちろんすべて有効利用されていた。そもそもビンはお金になるものだった。空き瓶を持って行けば10円で買ってもらえた。だから、ごみにするなど考えられなかった。どんな紙切れでも延ばして保存していた。

 新聞紙がトイレットペーパーだった。くしゃくしゃにと揉んで柔らかにしてから拭く。おしりがインクで黒くなる。この感覚は分かってもらえるだろうか。昔は葉っぱで拭いていたのだから、これの方がいいと言われたものだ。しかし、葉っぱで拭いたのはもっと昔のことだろう。

 もちろんその糞尿は堆肥になって、畑に戻され捨てられるどころではない、貴重なものだった。糞尿のリサイクルは日本は江戸時代に確立した。江戸という当時の大都市の糞尿はすべて近郷の農家が利用していたのだ。それはすべてを捨てないという素晴らしい仕組みだと思う。

 中学生のころと思うが、ガラスの注射器を消毒して又使うという事より、プラステック注射器を使い捨てにする方が経済性が高いという事を聞いた。確かに集団接種を使い捨て注射器でやっていれば、肝炎が広がることを防げた訳だ。

 その使い捨てという言葉がどうしても理解が出来なかった。今まで物は出来る限り捨てないで、大事に使う。この考えが染みついた頭ではどうして使い捨てた方が経済性が高いのかが理解できなくて質問をした。そうしたら、注射器が極めて安くできるから、注射器を消毒するより安いのだという話だった。

 今思えば注射器の使いまわしがやっとよくないらしいという事が分かったことが要因で、一回ごとの消毒に変わり始めたという事だったのだろう。お医者さんには注射器はガラス箱の蒸気の出てくるような消毒ケースが置かれていた。この使いまわしが限界を超えたのだろう。

 ところが今になれば、便利な代替品であったはずのプラステックが、ゴミにできなくなっている。プラステックごみがマイクロプラステックになって人類を死滅させる可能性すら生まれている。このことを考え始めると、解決法が見当たらず、絶望的な気分に陥る。末世の思いが生まれる。

 すべては経済的価値観で物に対してきたからだ。本来物は物は粗末にしてはならないという価値観は普遍的なものだったのだ。断捨離だろうが何だろうが、物を捨てれば罰が当たるという方が、正しいことだったのだ。

 捨てることは良いことだは、消費社会の罠だ。断捨離ではその効用をあれこれ並べている。私も一番大事なはずの絵を捨てているので、捨てることの意味はよく分かっているつもりだ。捨てなければ絵も前に進めないのだ。やむを得ず捨てて、次の新たな場所に向うという決意で捨てる。

 北斎は名前を捨てた。名声を捨てた。場所を捨てた。新たな場所で生活を始めた。転生しようとしたのだろう。絵を描くという行為は常に新たな場所に向うという事だ。いままのままで良いのであれば、それは芸術行為としての絵画ではない。

 そのことが自覚できれば、一枚描くごとに未知の世界に踏み出す醍醐味を味わう事になる。良くなるとか、悪くなるとかではなく、かつてないものを見たと言えるかどうかであろう。絵を描くという事は見るという事がどこまでも深化し、生きるという真実が見えてくるかもしれないという挑戦である。

 捨てるという事はよほどの覚悟がなければやらない方がいい。ものに宿されている命を捨てることになる。静物画という物がある。果物やビンなどを描く絵である。英語ではスティルライフである。死せるものというような感じであろうか。

 物存在への肉薄である。ヨーロッパではポンペイの壁画でも見られ、物を描くことで見ている自己存在の確認をするというような、絵画が13世紀ごろには成立する。宗教画の中の静物画である。魂がものに宿るような世界観である。

 日本人の伝統的な価値観の中にある、もったいないの奥底にある物存在への尊敬の念のようなものは、樹木信仰と同じようにあったのだと思う。物には魂が宿っているから、あだやおろそかにしてはならない。この価値観は忘れてはならないものだと思う。

 確かに現代の効率主義の社会では、経済合理性のない考えかもしれない。針供養や人形供養をして断捨離をする。そうしたすれるという事に抵抗感は必要なことだ。捨てた方が賢いという社会は何かがおかしい。消費者から、生活者に変わる必要がある。

 本当の生活者はそもそも捨てるものなどないはずである。ごみを多く出す暮らしは良くない暮らしだという自覚が必要である。と言いながらも当然ごみを出す暮らしをしている。この自己矛盾する自分の不甲斐なさに実に不愉快である。

 ゴミにならないような商品を是非ともスーパーでも販売してもらいたい。高くてもゴミを伴わない商品を購入したい。ファミマのコーヒーをコロナで買いに行けないが、コーヒーマシンが変わった。以前は蓋などなく、持参のボトルに直接入れることができた。

 ところが新しーマシンは蓋を占めなければ起動しない。そこで仕方がなく、紙コップを使い捨てる。何というもったいないことかと思う。さすがにコップとボトルを持参するというのも、難しい。マシーン中に入るサイズのボトルがないのだ。カフェラテ2杯というのが定番だったのだ。


 

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