甲府盆地坊が峰の開墾記

   



 昭和30年頃のことである。山梨県境川村にある坊が峰と言うなだらかな山で開墾が行われた。坊ヶ峯は藤垈と言う私が生まれた部落からすると、甲府盆地の出入り口を門番するかのように横たわっている。そのなだらかなお椀を伏せたような形を、上から見ているのが向昌院からの眺めである。
 
 今では藤垈の集落と坊が峰の間は、リニアモーターカーの実験線がトンネルの中を走っている。幸いなことに、トンネルで通過しているので姿が見えないでくれている。もし見えたらきっと怖いような早さだろうかと思うと、想像だけでも落ち着かない。

 今ではあの坊ヶ峯の山全体が開墾されて、山のすべてが畑になったことなど、想像も出来ないように茂みの山に戻っている。覚えている人もほとんどいないことだろうから、記憶していることを描いておこうと思う。今保が峰にはテレビ塔が何本も建ち並んでしまい、昔ののどやかな姿はない。私の中にはテレビ塔など一本もない坊が峰がいつも思い出される。

 坊ヶ峯では戦後開墾が行われた。食糧難の時代には畑になるところはありとあらゆる場所が開墾されて、畑になった。それは山梨や神奈川県だけでなく、日本全国最も耕地面積が広がって行く時代だったのだろう。干拓が各地で行われていたと言うことだけでも、今では不思議なくらいだ。

 松下幸之助氏が国土建設隊というものを作り、日本人は20才になったら懲役にすると言う計画を、正月の新聞に発表した。海を埋めたり、山を崩したりして、国土を広げようという計画。徴兵制度に変わる、人間教育の場と考えていたような気がする。田中角栄の列島改造論よりも前の話だ。子供の私はすごく喜んでしまい、是非実現して貰いたいと思ったものだ。

 まだ、開拓移民が続いている時代で、境川村からブラジルに行く人も珍しくなかったのだ。戦後開拓は日本中で行われたわけだが、この昭和30年頃にも行われた坊が峰の開拓は、地元の人が出て開墾をすることになっていたので少し形が違うのかもしれない。

 正確な計画は分からないが、各家に割り当てがあり、一区画ないし、2区画は担当しなければならなかったのではないかと思う。私の家ではおじいさんが役場勤めと言うこともあり、率先して引き受けざる得ない立場だったと感じた。今思えば、家の周りにも山や畑はいくらでもあり、何も坊が峰に開墾に行く必要は、どう考えても無かった。その家の回りの畑ですら、人を頼んでやって貰うぐらいだったのだ。

 もちろん中には、開墾してその土地が自分のものになるならと積極的に開墾に出た家もあったに違いない。それでも全部の区画がたちまちに埋まるというほどでもなかったようだ。おじいさんは開墾の参加を頼んで回っているようだった。何期にか分かれていて、向昌院が行くことになったのは最初ではないはずだ。今になれば無意味にかいした開墾の記録は余り正確なことは残されていないのだろう。

 最初の開拓は戦後すぐだったのかもしれない。そのうち大きな道が出来た。部落からみんなが出て道普請で作った。その道に沿って、開拓地が広がっていったのだと思う。向昌院から坊が峰の畑までは2,5キロぐらいあったと思う。開墾に行くという日はリアカーにあれこれ積んで、大人数で出かけて行った。

 子供などいったところで役立つと言うことでは無い。向昌院の畑仕事はある意味娯楽的なところがあったのだ。みんなでごちそうを持ってハイキング気分が半分ではなかったか。特に子供と、おばあさんはそういうお楽しみというとあれこれ準備にせいを出した。

 たぶん、おじさんはその頃中学の教師だったはずだから、休みの日に開墾に通ったのだろう。予科練に行き、特攻隊から生き残り帰還した。無理矢理駒澤大学に入れられ、卒業するとそのまま永平寺に入ってしまった人である。永平寺から長く戻らず、色々考えるところはあったと思うほか無い。なくなる前その辺のことを一度も語らなかった。戻ると芦川村の鶯宿分校の教師になり、お寺にはなかなか戻ろうとしなかった。

 鶯宿から、夏休みに戻って開墾をやっていたのだろうか。おじさんは百姓になりたいと言うことがあり、駒澤大学ではなく松戸園芸に行く予定だった。それこそ江戸時代の百姓のような暮らしを実際にしていた。学校から戻ると、暗くなるまで炭焼きやら、カゴ作り、背負子作り、箒作り、むしろ織り、ざる作りなど、黙ってやっていた。箒を何十本も作っていたのは必要だからと言うだけでは無いだろう。

 開墾畑にサツマイモを植え付けに行った。だから、五月頃のことだ。リアカーに水も汲んで、みんなで押しながら坊が峰を上っていった。強い陽射しで、日向は暑すぎていられなかった。こんな日では薩摩がやられちまうから、夕方から植えることにして、昼間は草取りと耕耘に専念した。手伝いたくてしょうがないのだから、いくらかはやらして貰ったはずだ。

 帰るときにはまだ薩摩の植え付けは始まらなかった。先におばあさんと戻った。お風呂を沸かしたりして、みんなが戻るのを待って、夕飯だった。あの一日の楽しさは記憶に染みついている。明るく雲が飛んでいった、希望に満ちた幸せが具現かしたような一日。

 あの一日の風景が、いつも絵に出てくる。あの空が描きたいと思い出す。あの乾いた明るい道が描きたいと思う。みんなが道普請で切り開いた坊が峰の道である。開拓地への道である。開拓をすると土地がもらえると言うことが、夢のような希望になって、坊が峰のすべてが畑になった姿に重なる。

 幸せの一日は、希望がある一日と言うことだ。あの坊が峰の開墾の記憶が、山北で開墾生活をしてみることに繋がったに違いない。そしてその開墾生活が、絵を描くことの原点のようなものに今でもなっている。

 あの開墾地は今は荒れ地である。坊ヶ峯には住宅地が出来ている。そして開墾したのはこのあたりだという場所には、桃が植えられていた。確か開墾した土地は数年してから、本格的に農家をやる人に差し上げることになったのだと思う。何年かはサツマイモを作りに行ったが、余り良くは出来なかった。乾いているのが良くないといっていた。

 なぜか、開墾というとサツマイモを思い出す理由がある。相模原のいまでは米軍に接収された場所で、東京暮らしの笹村の家は開墾をやっていた。父は復員して、家族が食べるものがないので、相模原で開墾を始めた。そこで父と母出会うことになる。母は富士吉田で教員をしていたのを無理矢理止めさせられ、東京の大学に子供を通わすためには食料がいるというので、相模原の開墾に加わったのだ。

 そして、麦とサツマイモを作ったそうだ。その開拓地の一角には若い兄と妹がいて、サツマイモの苗を植えたのだそうだ。そのさつまの栽培を知らないが為に枯れてしまい、飢え死にをしてしまったというのだ。その話が頭にこびりついていて、開墾というとサツマイモをしっかりと作らなければ生きていけないと思えてしまう。

 開墾地を描くと言うことになると、ただただ溢れてくる希望と、命に関わる土地というものの切迫感が表われてくる。それが今やどこもここも、耕作放棄地である。何か間違ってやいませんか。坊が峰の希望は確かに当時からして幻影ではあったのだが、子供の私には希望と言うものの具体的な姿だった。

 数日して、サツマイモの畑の様子を見に行った。毎日枯れているんじゃないかと、私が余りに言うもので、連れて行ってくれたのだ。何しろ枯れてしまえば、飢え死にすると思っているのだから、心配でたまらない。それが驚くほど立派に根付いていた。あのしおれかかった苗が、こんなにたくましくなるものかと目を見張った。これでもう大丈夫だと確信できた。

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