絵画のこれから始まる意味

石垣島には孔雀が多い。毎日見ない日はない。孔雀は増えて困るので、害獣駆除されている。ところがなかなか減らない。絵を描いていると良く出てくる。私が絵を描くような場所が孔雀も好きらしい。この孔雀は雌を2羽連れて歩いている。私にはもう慣れてしまい、怖がりもしない。
慣れてしまうと鳥好きの私としては害獣駆除は少し困る。孔雀はキジに近いのだろう。子供の頃キジを飼っていた。卵を取り孵化したこともある。孔雀に声を掛けている内にきっと向こうも慣れたのだろう。一メートルくらいの所まで近寄る。
絵画批評はほぼ失われたのではないだろうか。絵画も衰退したのだろうが、それ以上に批評というものを見かけなくなった。ネットで絵画批評を探しても見つけることが出来ない。三〇年前には大手の新聞社には美術記者という人がいた。70年代の北國新聞社にもいて、親しくなり絵に関する議論などした覚えがある。新聞には良く絵画の批評が載っていたのだ。絵画批評の月刊誌が10はあったのではないだろうか。
美術評論がほぼ消滅状態の原因は、絵画が社会的な芸術として存在してはいないと言うことを表しているのだろう。確かに絵画芸術が社会性の意味を変えたと考える必要はある。そのことは絵画を制作するという行為の意味が失われたと言うことでは無い。個人にとっては分断され疎外された社会では絵画の意味は高まっている。
絵画は極めて個人的な制作する行為の意味になったことは事実ではある。が、その意味は変わらずに存在する。芸術というものは社会とは一見関係なく存在しているように見えることもある。多くの個人の人間にとっては限りなく大きな事になっているのかもしれない。
分断され、全体性はないが、それぞれの人間にとって極めて重要なところで制作が行われている可能性はあると考えている。少なくとも私はそのつもりで描いている。そうした姿勢で描いている人を他にも知っている。
哲学とか、詩とか言う同類の芸術も、どこまでも私化したとしても、その意義がなくなるというわけではない。絵画も個人の中に埋もれて行きながら、その意味が制作行為という事に集約して行こうとしているのではないか。そうせざる得ない社会の状況と言うことだ。
絵画がその時代を反映していたようなことは、現状では信じがたいことのように見える。しかし、明治期の日本の絵画を見ると、当時の西欧文明の流入に対して起きた、日本人の精神や哲学の活性化したものが、絵画の中に浮かび上がってくる。江戸時代の浮世絵が江戸の空気を生々しく伝えてくれる。宗達や光悦が安土桃山の高度な精神世界の存在を示している。
翻って現代を示すような絵画が存在するかと言えば、中川一政氏を最後として、この時代を反映している絵画は失われたと言える。それには理由がある。この社会が分断されていて、芸術の運動的な総合的な動きが取れないと考えている。
絵画という極めて個人的な行為の中にこそ、社会を反映する時代と考えている。時代が過ぎて、今の時代を反映するものが、むしろ私絵画である可能性はある。文明の変わりゆく大変な時代であったと見えるはずだ。その文明の転換期を反映した絵画。
かろうじて趣味という世界の中に混在して絵画は存在する。外からどう見るかよりも、それぞれがどう描くかが問われているのだ。絵画批評というものはこの新しい状況に対応できないまま、この世から消えたような気がする。絵画を批評したところで、誰も興味を持たないのだろう。私絵画は人のことより自分の問題なのだ。ネットにはあらゆるものが存在するのだが、絵画批評はほとんど見当たらない。
美術館という箱物は盛大に存在する。公共の美術館というものがあり、そこには公務員である学芸員という大量の人がいる。社会は仕組みとしての美術館という器を必要として、大きな経費を出費ししている。果たしてその理由は何なのだろう。何か商品絵画の投資目安のように見えないでもない。
絵画そのものが衰退する中、公共の美術館はどのように存在意義を見つけているのだろうか。今のところやっていることは海外の過去の絵画を紹介して、人を集めている。客を集め表面的には盛況な状態を見せている。日本の絵画でも様々な角度から、絵画に焦点を当てる工夫をして、観客を動員している。
公共の仕事として、観客数は客観的な評価の意味合いを持つから、人の集まるもの以外は出来ないと言うようにも見える。しかし、新しい絵画芸術の発見、創造と言うことも本来の美術館の役割では、無いのだろうか。それは企画のしようが無いのか、探しても見当たらない。
国立近代美術館、東京都現代美術館、というものがある。ここで日本の絵画の批評活動が行われているのだろうか。金沢の21世紀美術館の図書室で評論を探したがなかった。日本の他の美術館の研究紀要のようなものが並んでいたので読んだ。その中にも評論のようなものはなかった。
公共の美術館はきちっと整理整頓はされているが、次の絵画芸術を予告するような努力は感じられない。美術館の役割は何だろうか。過去の評価の定まった美術を紹介していれば、人も集まり無難と言うことなのだろうか。それもいつまで続くことか。
人間の暮らしと芸術の関係をもっと真剣に考えるべきでは無いだろうか。遠からず、過去の絵画を展示することも意味をなさなくなるはずだ。観客を呼べるから、それで良しという問題ではない。美術館というものは存在する以上、次の時代の芸術を予告するような役割もあるはずである。
例えば、東京都美術館ではその年に開催された公募展の中から、めぼしい作品を選んで、選抜展のようなものを開催しているらしい。見たことがないので、云々することは出来ないのだが、その選抜した作品の批評はどこを探しても無い。本来であれば、東京都美術館の学芸員はその作品の批評を書くべきではないだろうか。
何故その作品が優れたものとして選抜したかの理由を書くべきでは無いだろうか。そうして、その批評文をホームページで公開すべきだ。そこには公共の美術館たるものの次の時代の芸術を模索して行くと言う姿勢が存在するはずである。
しかし、そうしたことは出来ないに違いない。公共の人は批評ができない。角を立てない社会というものが芸術を衰退させた一面がある。忖度していては提灯記事しか書けない。こんなものは何の意味も無いと発言できる環境がなければ、芸術は育たない。
絵画は人間が自分として生きるために必要な行為である。描くことを通して、自分を確認し掘り下げているのだ。終末期の資本主義の時代に唯一本当の芸術として生き残るものなのかもしれない。