抵抗者の思想

   



 権力には必ず抵抗しなければならない。何でもいいからまずは文句を言って嫌われなければならない。権力に好かれてしまえばお仕舞いだ。腹を立ててたてつくことだ。尻を捲って、屁を放って尻すぼめるだ。理由は要らない。先ずは権力から距離を持つことだ。

 権力は常に腐敗する。権力であるために常に腐敗を続けている。それはどれほど善意の権力でも、少しも、何ら変わらない。何故なら、腐敗するのが権力の本質だからだ。腐敗しない権力を目指せば、目指せないことはないだろうが、まずもってそれでは権力にならない。

 だから、権力に近づこうとしてはならない。当然すぎることだが、人間として生きるものは、権力者にはあらゆる場面で遠ざかるっていなければならない。腐敗する権力を正してゆく抵抗勢力がない社会は、自由の失われた独裁権力の存在する社会だ。

 いま世界は独裁者の世界になりつつある。思想で国家統一を求めるのではなく。個人崇拝で国家を率いてもらおうという潮流である。独裁者の存在が競争に有利だからだ。社長が有能で独裁的な会社の方が、民主的な会社よりも競争に勝つというのではないだろうか。

 少なくとも、国家資本主義の方が、日本よりもまともな経済運営をしている。日本では長い間アベノミクスという経済指針出来たが、その間衰退の道を歩んで、ついに先進国から脱落をした。中堅国家としてやり直そうという場面にある。

 アベノミクスがだめだったのか。日本人全体がだめになったのかはよくわからないが、政治に権力者がだめだったことは確かだ。一番のひどさはこの失敗としか言えないアベノミクスをいまだに成功だとしか言えない日本の政権党の姿である。

 日本では安倍に対して造反して新政権が出来るという事がない。スガ氏などはまるで、番頭が社長になったようなことだったが、たちまち交代させられた。造反したかに見えた岸田氏などは造反どころか、今やアベ氏にお伺いを立てて、言いなり政治である。

 権力は腐敗する。少なくとも前政権を批判して自分の路線を打ち立てるだけの人材が自民党内部には居ないのか。自民党内部に路線争いはないのか。忖度人間ばかりなのか。そういう事なのだ。造反有理の人間は自民党には近づくわけもない。

 反対意見がない正義などあり得ない。どれほど正義が強調されようが、必ず正義には当たらない反対意見はある。そのことを忘れてはならない。プーチンの侵略戦争はまさに権力の暴行だ。それに抵抗できないロシアの悲しい現実。

 ウクライナの反撃も、代理戦争化してしまい。ウクライナ人が殺され続けている。原因はロシアにあるとしても何かがおかしい。おかしくない権力にウクライナをさせてはならない。おかしくないのであれば、戦争にはならなかった。プーチンの異常さを察知しなければならなかった。

 日本でも最悪の権力者だったアベ氏はプーチンと友人だと強調していた。プーチンから北方領土を返してもらおうとして、何度も交渉した。シベリア開発も協力をした。そして、何もプーチンと交渉できていなかったことが今回証明された。あの交渉がいかに馬鹿げたものであったのかを説明してもらおうではないか。

 抵抗は理屈ではなく、社会にはなければならない思想のことだと思う。どれほどの善人であれ、権力者になれば、悪人になる。悪人としてしか権力者ではいられない。見てみることだ。この世に権力者がうじゃうじゃ蠢いている。善人のつもりの権力者が、どれほどたちの悪いものか。

 精いっぱい努力をして、頑張っている権力者を批判しなければならない。頑張って成果を上げられない権力者を批判しなければならない。造反有理だ。紅衛兵はどこにいったのだ。

 習近平氏は文化大革命で父は権力者だったが16年投獄された。妹は飢餓によって死んだ。自らは地方に下放した。毛沢東主義の子供として、極貧から権力者にまで上り詰める。どれほど有能で、優秀なのかと思う。主張は正しい。しかしやることは、極端な独裁主義だ。毛沢東の上をゆく締め付けを行う。

 にもかかわらず毛沢東主義を掲げて、中国の独裁者になり、皇帝になろうとしている。権力は腐敗するという事だろう。毛沢東だって腐敗した。習近平は毛沢東の主張した造反有理をどのように理解しているのだろうか。そもそも毛沢東主義を本当に理解できているのだろうか。どれほど屈折しているのだろうか。

 人間には生きる限り批判し抵抗を続けることが求められている。連帯を求める余り、批判勢力内部が権力化することも、同時に許しては成らない。「連帯を求めて孤立を恐れず」 全共闘のスローガンである。美術部の部室の壁にも大きく書かれていた。

 あの時が境目だった。時代から抵抗勢力が消えた。反権力に生きるものがどこかに沈殿した。遅蒔きながら、今からでもバラ蒔きでもいいから、抵抗を続けよう。七無斎ではないが、可愛がられて死ぬよりましだ。善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。親鸞にはこの辺のことが良く良く分かっていた。

 この言葉はあまりに逆説的で様々に解釈されている。これは反権力に生きた親鸞らしい言葉だと思う。善人として生きるような人間は、権力におもねる忖度人間だ。嫌われて生きる悪人こそ本当に、自分というものを生きようとしているという考えではないか。

 自分というものに、まさに向き合えば、人と折り合いというものは無くなる。困りものの悪人の存在である。悪人である自分をまずは認めることからしか始まらない。自分を善人だと考えるような偽善者では往生は出来ない。

 自分に生きようとするものは、誰とも妥協しないでもいい。悪人たれ。悪人こそ本当の道を歩めるのだ。そういう事の実際が絵の中ではできる。悪人である自分というものはどこにあるか。これを探す絵のおもしろさ。

 自らを悪人と自覚するものはその悪を抑えることが出来る。自らを善人だと思い込んだ権力者ほど始末に悪いものはない。良いことをやっているんだと暴虐を続ける。弾圧を正義の為だと平然と続ける。権力とはそういう人間を腐敗させるものだ。


 
 

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