水彩画は連歌のようなものだ

アトリエカーの窓からは苗代が見える。緑のネットの所だ。一息つく度に苗の様子を見に行く。幸い一度も鳥は来ていない。このまま無事一週間過ぎれば一安心である。アトリエカーの写真の右側にあるように、次に描く絵が挟んである。一度描いてみてまたここに戻すものが沢山ある。
この描きかけの絵は、目の前にあるのだがかなり先に進んでいる。す澄んで良くなってきたというわけでは無いが、描く意図は徐々に見え始めている。絵としては出だしのときの何物かを今は失っている。それでいいのだが、問題はこの後である。
大学の頃の美術部の話なのだが、文学部の角田さんが連歌をみんなで作ろうと提案された事があった。角田さんはさすがに連歌の式目を理解されていた。平安時代以来、連歌には極めて複雑な式目という作法が存在する。それが平安貴族の文化人の教養というものだったらしい。
江戸時代にはその格式の高いものが、庶民的なものに変わり、俳諧連歌というものになる。角田さんが初心者向けの簡単ないくつかの約束事を提案してくれて、美術部の部室で時々やってみた。それが結構おもしろかった。あの頃は頭がまだ機敏に反応できたわけだ。
約束事を表示しておいて、それに従って句を作るのだ。ところが問題は句自体が出てこない人が多くて止まってしまって困った。何でも良いから作れというのだが進まないでたびたび頓挫した。一人が停止すると連歌には成らない。
美術部の大勢で鳥越ダム建設の飯場だった、大学の鳥越寮に行って連歌をやったことの記憶がある。あの頃の日々は懐かしい昨日のことだ。冬の雪に埋もれた時だったので、雪の出て来る句ばかりになった。それでは約束と違うのだと言っても無駄だった。連歌を作る教養は無かったわけだ。
水彩画は連歌のようなものだ。油彩画が物語だとすれば、水彩画は連歌である。水画画を描いているときに、連歌で句をつなげてゆく感覚に似ているなと思ったからである。白い紙に最初に筆を漬けるのは、発句である。発句575に対して77をつける。77に対してさらに575を付ける。
連歌というものは共同芸術のような行為である。茶の湯のお茶会のようなものだろう。連歌を作ると言うことに芸術的共感を高める高揚がある。出来上がるものも意味が無いわけではないが、むしろ創作を共にすると言うことで、精神を高めてゆく。連歌という形式にはいかにも日本的な芸術行為の姿がある。
水彩画は連歌のように描きつらねてゆくものだと思ったのだ。始まりから終わりまで一気に描けることはまずない。大抵は途中で止まる。しばらく時間を空けてその続きを描くことになる。また止まる。また描き継ぐ。この繰返しで絵が生まれる。
この止める、描き継ぐの呼吸が水彩画では重要な要素だ。最近と言うより昔からそんな描き方だった。絵を見ている内に何かが来て、描き継ぐことが出来る。来なければ止まったまま何年も経過する。描き継ぐ描き方には、作法がなんとなくある気がする。始まり方にも作法がありそうだ。
連歌では最初の3句が重要だといわれている。1句目は季語が入る。この句が発句であり、芭蕉が後に大成した俳句である。向昌院の祖父は飯田蛇笏の俳句の会に入っていて、発句の会と言っていた。2句目はその会の主催者が詠むこととなっており、1句目にしたがった内容を詠む。3句目では、その歌会の流れを決める決定的な句を詠む。3句目は「て」で終わるのがルールとされる。
分かりにくいので、一例を挙げさせて貰う。現代の連歌からの引用となる。味わうときには前の句を一度詠んで次に進むと良いようだ。2句でひとくくり。
かしこみてくぐる茅の輪の匂ひかな 紅夢
風すがすがし梅雨のあとさき 正謹
立つ虹は峰を片へに彩なして 淑子
入日ながむる内海の宿 隆志
大楠をねぐらの雀鎮まりし 佳
落葉踏みしめ歩くつれづれ 勲
月見んとまだきに出でし路遥か 裕雄
雁渡り来る空の深さよ 裕子
吹く風を秋と定めし人憶ふ 忠夫
なほなほ書の尽くることなく 清
風すがすがし梅雨のあとさき 正謹
立つ虹は峰を片へに彩なして 淑子
入日ながむる内海の宿 隆志
大楠をねぐらの雀鎮まりし 佳
落葉踏みしめ歩くつれづれ 勲
月見んとまだきに出でし路遥か 裕雄
雁渡り来る空の深さよ 裕子
吹く風を秋と定めし人憶ふ 忠夫
なほなほ書の尽くることなく 清
最後を占める句のことを挙句という。いわゆる挙げ句の果てのことに成る。連歌の最初の句である発句に対し、その最後を締めくくる句が挙げ句になる。この事例の挙げ句はどうも力が抜けている気がするがそうでもないのか。歌仙連歌というものであれば36句目に当たる付句が挙げ句となる。
水彩画を描いていてこの連歌の流れのことを思う。前の未完成の状態に反応して次を描く。そしてさらに生み出された新しい状態に従い、次を描き継ぐ。これを繰り返して最後に挙げ句が来る。これが一日で出来ることもあれば、何年もかかることもある。
いつも先のことを予測して描いているわけでは無い。その時の描こうという気持ちが筆を進める。そして何故か出来た、画面を発端にして次に来る状態を想像して、描き継いでみる。いつ挙げ句の果てが来るか分からないところがあるのが水彩画である。
実は大学の美術部では連歌のように絵を描いてみようという共同制作をしたこともある。ベニヤ2枚サイズの絵を4人で描き継いだ。なかなかおもしろいことだったが、やはり完成に至らなかった。やはりどうしても手を出せない人が現われてしまうのだ。
水彩画で最も重要なことは描き継ぎ方だとおもう。しかもいつも次の句があると言う描き方である。挙げ句がいつ来るか分からない描き方だ。終わりはとつぜん来る。自分では分からないのだが、描き継いでいる内に絵の緊張が高まるようなことが何かをきっかけにして起こる。
絵が立ち上がってきた感じが生まれる。結論を出す方向が見えてくる。挙げ句の果てのことだと思う。水彩画の一人連歌である。本当はこれを共同で行える共同制作が可能であれば、おもしろいと思う。とうてい無理だと思うが。将来水彩画の在り方として、連画と言う形式が生まれる可能性も無いとは言えない。
この場合も描き継ぐ約束事、作法がやはり必要になるだろう。描きだしの役。方向を探る役。方向を決める役。やはり三人目が重用であろう。展開して行く役。展開の役は何人か居る。そして立ち上げる。挙げ句の役。ここが最も重要になるのだろう。
水彩画の重要性は最初に描いたことの意味が、否定されたり、そだてられたりしてゆくものである。最後まですべてが生かされた画面になると言うことだ。描くすべてが何らかの形で残されていることが水彩画である。前に描いたものをどのように生かすか。なおかつそれをどう否定するか。そしてどこに向けて描き、どのように終わるか。
芭蕉は発句を独立させて、俳句とした。これは随分素晴らしい発想の転換に見えるが、社会的な意味での芸術の衰退と言うことでもあったのかもしれない。一人で大道芸のように、神社の境内で一日千句を作る発句興行さえ生まれたそうだ。芸術を個人のものに出来たという意味では、先駆者ではある。しかし、芸術の共同性というものを消したと言うことでは、失ったものは大きい。
現代では連歌が衰退した。それは絵画というものの衰退も感じさせる。絵画が発句になる。個人のものになる。私絵画になる。連歌が作られる文化が失われる。絵画というものの役割が失われた社会に生きている。