どうすれば人と競べないで居られるか。

人生のやっかいな問題のほとんどは人と競べると言うところから始まる。あの人の方がカッコイイ。あの人の方がお金持ちだ。あの人の方が頭が良い。人それぞれに競べるからがっかりして、落ち込む。しかし人間は競べずには居られない。しかもこの時代は競べて能力競争することが良いこととして、奨励されている。
自己評価が低い人という結果は、競べざるえない人間すべてに当てはまることになる。比較すれば金メダリストにだって、自分より強い人は居る。本来、生きるには競べる必要などまったく無い。しかし、人間という脳が肥大化した生き物は、あらゆる能力を競べて自滅する。
日本の社会では資本主義は一番でなければ意味が無いと考えられている。日本自体が2番手になってしまい。国際競争ではほとんどの面で劣ることになった。まだそのことが認められない。当然理由はわからない。まだ一番になろうとあがいてはいるが、99.9%無駄な努力である。努力は人と競べるのではなく、自分をみがく事に向けられるべき事だ。
どうすれば競べない生き方が出来るか。それを探すが楽観に生ききる姿勢である。世間と言うものは人を競べて評価するものだ。あの人の技術は人並み外れている。誰それはみんなについて行けない。なんやかんや、世間の都合で選別してくる。これが気になる。
自分が人と競べないと言っても、社会や他人はむこうからどんどん競べてくる。学力試験をやって、お節介にも偏差値がいくつとか全体での位置づけまでしてくれる。自分の学力テストの結果は全体の中の下くらいである。などと一方的に競べさせられる。こうして鞭を当てれば、人間頑張れると誤解している。
受験をすれば、合格不合格の比較の結論が出される。絵を描けば、売れる人の方が絵描きで、売れない人は趣味の人という形で競べられる。確かに世間的にはそうなのだが、それは本質を少しも表していない。受検で比較される能力はどれだけの記憶力があるか、どれだけ我慢が出来るのかが測られるだけだ。
驚くべき事にお米を作るにしても、競争をさせられる。販売のために人より早い収穫。より多くとる。そして美味しい。農協に出荷すれば、一等だとか二等だとか、さらに選外だとか決めつけられる。競争の結果がお金に換算されてくる。
人間が落ち込むのは人より劣っているという評価が下される場合がほとんどではないだろうか。絵を公募展に出品して落選して落ち込む。落ち込みたくないから公募展には出さないという人も多いだろう。公募展の審査員の評価など芸術としての評価の意味は無いと分かっていても、競べてだめだと言われると、がっかりしない人は居ないだろう。
冷静に考えれば、競べてだめだと烙印を押されても、自分の価値は何かが変わると言うことは無い。自分の価値は自分自身が決めるべきだ。能力主義万能の社会だからだ。これは差別だと分かっていても現実の社会の評価は変わることはないが、自己評価は自分でしなければならない。これも大変なことなのだが。
能力主義のことを大学の時の倫理学の授業で討論がされたことがある。教育に於いて、人と比較してはならないと言う話だった。比較できないその一人一人の能力を育てるのが教育の目的であると。その通りであるが、教育機関の学校の入口にある選抜試験はどういうことなのだろうか。
公教育に於いて選抜試験はいらないとすれば、それは高校であれ、大学であれ、選抜試験は不用になる。高度な学問に於いては、一定の水準の能力がなければ、教育が出来ないと言う事なのだろう。今の社会ではそういう人達だけが頭脳として活躍し、あとは手足となる労働である。だから日本では肉体労働をやるのは外国人と言うことになる。
恋愛において、スキになった人から選ばれないというのは、差別されたのではないかと私は学部長だった小松教授に質問した。常に差別される人間だと自覚していたからだ。選別されると言うことはどの社会でもどんな場面でもあるのではないかと。あると言う前提で、それをどう克服するかを考えるほか無いのではないかと。
「弱ったなぁー、それは意味が違うよ」と言われたが、人間は他者によって評価が下されると言うことに、常にさらされているという意味では、受験も恋愛も同じではないか。その授業で最後のフロンティアが能力主義と言う差別だと教えられたことを覚えている。
ではどうすれば競べるという呪縛から逃れるかである。どうしたって競べてくる外界からどう防御すれば良いかである。まず、あきらめることだ。歳をとると大分あきらめられるもので、歳をとれば今更競べて劣っていてもそんなものだと考えられるようになる。
若い内はそんな気持ちには成れっこないが、何とかして年寄の諦めのような心境になれれば良い。人生は年寄が観ている方が現実だ。受験地獄の中にいたら、受験から抜け出せばいい。受験から抜け出せないのは学力の競争社会から、外れたら、社会で生きて行けないと思い込まされているからだ。確かにそういう現実をあちこちで誰もが体験しているだろうが、結局は生きるという意味では勝敗など無く、同じことなのだ。
ダメでもいいじゃん思うことにした。ダメで何が悪いんだ開き直ることにした。ダメな絵でも描きたいのだから描く。これだけである。人の評価から抜け出る。その確信を得るためには自分で生きると言うほか無い。自分の手足で生きて行けるという確信が得られれば、別段他のことは何とでも成る。
学力という関門が厳しい、医者になりたかったが入学試験で断られたとしても、医学を自分なりに学ぶことは誰にでも出来る。自分のための医者になれば良い。予防医学などと言うものがあるから、自分のための医学をそういう所で発揮すれば良いのだろう。きっと他人の医師よりも自分には優れた指導が出来るだろう。
人と競べる必要はすべてに無い。競べることを必要としているのは世間の方で、自分がそれに巻き込まれる必要は無い。それでは生きて行けないだろうと思わされているに過ぎない。大丈夫人間は自給自足で生きていける。たしかに、そう思っても一人では出来ない。
競べない仲間を探すことだ。その人がその人である事を受け入れてもらえる緩やかな人間関係に出会うことだ。確かに現実にはそれが難しい。大半の人が競争に巻き込まれているから、誰もが競争心をかき立てられている。それぞれの全力を出して喜び合える仲間を見付けなければならない。
劣っていることは恥ずかしいことではない。競べなければあるがままの自分を認めることが出来る。自分を自分が生きるのためにみがくことができれけば、その努力が素晴らしい。それが人のためにも成ればどれほど喜びが大きくなることか。
競べない生き方を身につける。自分一人でも生きて行けるという事を確認することではないだろうか。私の場合は自給自足を達成したとき、人と自分を競べないで済むようになった。それから人に役立てる事が喜びになり、ありのままに生きることで、自分の力を出せるようになった。