新聞・テレビとジャニー喜多川事件

ジャニー喜多川氏が起した嫌な事件であるが、日本社会の膿んだ内実が見えてくる。ジャニーズ事務所は今もテレビや映画業界では、大きな影響力のある組織だ。世界にまれに見るタレント養成会社である。今では韓国のアイドル産業が世界に進出しているが、これもジャニーズ事務所の後追いのようにその形態を真似たものだろう。
何故、見過ごしてきたのか。と朝日新聞は描いている。その言い方にすでに朝日新聞のずるさが出ている。何故見ないように、取り上げないようにしてきたのかである。報道は調査報道の考え方や批判精神を随分前から失っている。忖度報道ばかりが目立つ。しかも、その自覚すら無い。
この事件は唯一、文藝春秋が追求してきた。ただ事実をほとんど報道が知らなかったはずがない。そして、裁判で文春は負けている。最高裁判所は事実を一定範囲で認めながらも、文春のやり方を違法としているのだろう。今その時の最高裁の判事達は何を思うのだろうか。腐った人達だ。
日本の情けない、ダメなところだ。強い者に弱い。忖度する。権力者を作る。弱い個人は正しくとも、無視される。そうした日本社会の実態をこの事件は良く表している。それは菅元総理大臣がやった、学術会議人事関与事件に似た形で表れている。忖度しない奴はいたい目に遭うのだという、見せしめ事件である。
その後も曖昧なまま、実は学術会議に政府の権威を認めさせようという、事だったことが分かる。言いなりにさせようというのだ。学者風情が政府にもの申すなどとんでもない。こういう感覚が政治家にある。政治家自体が忖度をしながら総理大臣になる。菅氏の銅像が出来たそうだ。これも忖度である。
あのアベ氏と統一教会のもたれ合いさえ、見ないようにしてきたのだ。韓国の反日エセ宗教組織が、日本人を騙して献金させていたにもかかわらず、それを見過ごして、立派なアベ総理大臣として、国葬までしたのだ。その国葬に宗教組織である、公明党山口代表が賛辞を送り、参列しているのだ。なんたることだ。
報道がしっかりしていれば、あの暗殺事件はなかったはずだ。報道やテレビや政治の世界の余りの偏向に、暗殺した青年は追い詰められこれ以外にないと思い人殺をしてしまった。それはやっては行けないことであるが、その結果始めて統一教会の活動を、政治も報道表面化させた。
喜多川氏の性暴力に対して、目をつぶっていた一番はテレビ局である。NHKも同じである。こう言うときに視聴料は返還してくれるのだろうか。テレビ局は長年喜多川氏から恩恵を受けていたから、批判する側に回れなかった。こういう構図は日本社会のどこにでもある。忖度区することで、有利を図ってもらう歪んだ心情だ。
おかしいとは思うが、それを指摘しなければ、告発しなければ、恩恵を受けられる。美術団体でもおなじ構図がある。団体を代表する人の作品は良くない絵でも、つまらない絵だとは誰も言えない。水彩人は小さな美術団体ではあるが、そういうことは無い。全員が誰の絵が水彩人の方向を示しているか、記名で投票をする。
忖度をするような人は一人も居ない。そもそも忖度をしなければならないような権力構図がない。絵を前にして誰もが同じである。どこの絵画団体も権力構造を造る。例えば私が尊敬する中川一政氏は春陽会の権威であった。中川氏が退会される最後の年に私は春陽会に出品した。中川氏が今年で辞めると挨拶された。私もその一回で辞めた。
会場には中川氏が見えた。すべての会員が特別な存在として中川氏を扱っているのが垣間見えた。これは違うと私は思った。中川氏はそうしたことを望まない人だと思う。日本人の村社会はいつの間にか、権威を作り出してしまう。その結果、春陽会には次の中川氏ほどの画家は現われない。
私は水彩連盟の委員だったのだが、退会勧告を受けた。水彩連盟では誰でも対等であるという考えを受け入れなかったのだ。見せしめのように退会勧告がなされたのだが、そんな絵の組織では、対等に絵のことを話せないのだから、絵の研究など出来るわけが無い。だから辞めた。
有機農業研究会でも、有機基準を作るときにその議論のない作り方で、私は辞めた。とんでもない養鶏の有機基準を作ったのだ。おかしいと主張しても取り合ってくれなかった。その結果、私が主張したとおり有機基準の養鶏場は今でも広がらない。
私は有機基準に従う、養鶏をやっていた。その私の意見を無視する組織だったのだ。問題点を一番経験していると思う。日本ではJAS有機基準が出来たが、有機農業の広がりは生まれなかった。それこそ出来て以来の23年間の停滞である。完全に世界の趨勢から遅れた。その組織的問題が有機農研にはあった。
組織が出来ると忖度が生まれる。これが日本人の悪弊である。組織に権威を作らない。誰もが同じである。自由な話し合いが出来るものでなければ成らない。どれほど天才的な人が作った組織であっても、おかしいことはおかしいと言える組織で無ければならない。
ジャニーズ事務所では、デビューしたいからおかしいことをおかしいと言えなかったのだ。腐った嫌なことだとは誰もが思いながらも、何十年と続いた。この在り方の異様さに目を背けてはならない。ここに居た大人達は全員喜多川氏と同列の罪がある。私を含めて日本社会は我が身のことと考えるべきだ。
自民党の中で自由に発言が出来るかどうか。官僚であれば、大臣に対して意見が言えるかどうか。大学であれば、病院であれば、会社であれば、自治会であれば、どこにも正しいことを正しいと言えない自分が居るだろう。意見の言える社会に変えなければ、日本はダメになる。ブログを書き続けているのは、忖度しないという自戒の意味もある。
日本の報道も、裁判所も、テレビ局も、NHKもまったく期待できないと言うことだ。まずこの状況を認識したら。次にこのひどい状況を変えるためには、自分が損な扱いを受けるとしても、発言するべきは堂々と発言するということ以外にない。そして、苦しい立場で発言している人が居たら、その人を支持することだ。